乱闘で退場…招待した母親から「恥ずかしかった」 球団初のFA入団も待っていた“悪夢”

近鉄時代の加藤伸一氏【写真提供:産経新聞社】
近鉄時代の加藤伸一氏【写真提供:産経新聞社】

加藤伸一氏は近鉄球団初のFA加入選手として期待されたが、右肘痛を発症

 またもや怪我が……。NPB通算92勝右腕の加藤伸一氏(KMGホールディングス硬式野球部監督)は、近鉄球団初のFA加入選手でもある。オリックスで11勝を挙げた2001年のオフに移籍した。背番号は「14」。12月に都ホテル大阪で入団会見が行われ、新たな気持ちでプロ19年目、2002年シーズンに挑んだ。自主トレ、キャンプ、オープン戦と無難に乗り切り、近鉄・梨田昌孝監督の期待通りに開幕ローテーション入りを果たした。だが、4月に“悪夢”が待っていた。

 2001年オフにFA宣言した加藤氏は、阪神、ロッテ、近鉄、ダイエー、メッツ、レンジャーズに、残留を求めるオリックスの日米7球団からラブコールを受けた。熟考の末、選んだのはその年にパ・リーグを制覇した近鉄だ。7球団中、一番長い3年契約提示が決め手になった。「やっぱり1年でも長く野球がやりたかったし、100勝という目標もあった」。その時点で通算84勝。3年あれば、の計算だったが、移籍1年目(2002年)の最初の登板で誤算が生じた。

 開幕2カード目の初戦、4月1日の西武戦(大阪ドーム)での先発を任されたが、アレックス・カブレラ内野手に2本塁打を浴びるなど、1回2/3、6失点でKOされて敗戦投手。実は初回の途中に右肘を痛めていた。「肘がロックしちゃって……」。加藤氏はオリックス時代の2000年に佐藤義則2軍投手コーチから肩に負担がかからないフォームを学び、2001年に11勝を挙げた。何度も悩まされてきた右肩痛が起きなくなったところでの右肘の異常だった。

 右肘は南海時代のプロ3年目(1986年)に痛めて苦しんだことがあったが、その後は右肩に比べれば、大きな問題になっていなかった。それが、よりによってFA移籍1年目に……。それでも、だましだましの調整によって中6日で4月8日のダイエー戦(福岡ドーム)に先発した。結果は5回2/3、2失点で降板。肘がまともな状態ではない中、耐えて投げたが、もう限界だった。試合後、梨田監督に事情を説明したという。

南海、オリックスなどでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】
南海、オリックスなどでプレーした加藤伸一氏【写真:山口真司】

7月に右肘遊離軟骨除去手術を受け、近鉄1年目はわずか2登板に終わった

「(選手宿舎の)シーホークで、監督室に呼ばれてね。覚えています。ちょうど角の部屋でしたね。『明日、(登録を)抹消する』って言われました」。2軍に行っても、どうにもならなかった。「キャッチボールもできなかった。投げても届かないんですよ」。病院での検査で右肘に遊離軟骨があることがわかったが、そのまま治療、リハビリを続けた。1か月、2か月と時間が経過した。だが、状況は変わらなかった。

「6月になりましたからね。僕的にはもうわかっていました。これは手術するしかないってね」。近鉄側は球団初のFA右腕だけに手術を回避して1日でも早く復帰してもらいたい考え。「日が経てば経ったで、3年契約しているじゃないですか。(球団)フロントから『どうだ』みたいな感じで聞かれたので『このままでは来年も投げられません』と言いました。それでも『いや、まだ(手術は)駄目だ。もうちょっと頑張ってみろ』、だったんですけどね」。

 加藤氏も諦めずに手術なしでの復帰を目指した。それで投げられるのなら、その方がいいに決まっている。「頑張りましたよ」。そこからも、いろんな治療を行ったそうだ。しかし、やはり回復までには至らなかった。「7月になって球団からようやくOKが出て手術しました。(遊離軟骨を)全部除去。ボッコボッコと9つ出てきました」。近鉄1年目は4月の2登板だけの0勝1敗、防御率9.82で終わった。

 近鉄2年目、プロ20年目の2003年、加藤氏のシーズン初登板は開幕から約1か月遅れの4月20日のダイエー戦(福岡ドーム)に先発して7回無失点投球。リリーフが打たれて勝ち星は逃したが、復活の好投だった。「肘はもうOKだったと思います」。中6日で先発した2登板目の4月27日の日本ハム戦(東京ドーム)では5回1/3、3失点で移籍初勝利。オリックス時代の2001年10月1日のロッテ戦(神戸)以来、573日ぶりの白星をつかんだ。

近鉄2年目は6勝。6月10日のオリックス戦では乱闘で退場処分を受けた

 その後も中6日、もしくは中7日で先発起用され、5月に2勝、6月にも2勝をマークした。6月10日のオリックス戦(大阪ドーム)では乱闘で初めて退場処分も受けた。6回無死満塁のピンチで加藤氏は投ゴロを本塁へ悪送球し、本塁のベースカバーに入った際、オリックスのルーズベルト・ブラウン外野手から大事な肩にタックルされて激怒した。思わずパンチを繰り出し、両軍がグラウンドに飛び出しての騒ぎとなった。

「ベースをあけて(返球を)待っているところにスライディングせずにタックルしてきた。ラフプレーと言えば、ラフプレーだけど、あの時はコリジョンルールじゃないし、プロテクターをしているキャッチャー相手ならありといえば、ありですよね。だけど、こっちは生身のピッチャーですからね。まぁ、カーッとなりましたね。気付いたら退場になっていました。パンチはちょっとかすったくらいで当たっていなかったですね」

 その日はたまたま両親を球場に招待していたという。「試合後、食事に行ったんですけど、母に『恥ずかしかった』って言われて……。あれが親を呼んだ最後の試合にもなったんですよねぇ」。テレビのスポーツニュースでも取り上げられ「梨田さんのメガネが飛んでいったとか見ましたよ。誰が僕のところに来ていたかも確認しました。(相手先発の)マック鈴木が向かってきていた。のちに『何であの時……』みたいな話をして仲良くなりましたけどね」。

 そんなこともあった近鉄2年目は16登板、6勝6敗、防御率4.28。シーズン前半は6勝3敗だったが、後半は勝ち星なしの3敗で、9月12日のロッテ戦(大阪ドーム)に先発して6回3失点で6敗目を喫した後は1軍登板もなかった。しかしながら復調に手応えがなかったわけではない。翌2004年は3年契約のラストイヤー。過去、広島でもオリックスでも移籍3年目に結果を出しただけに奮い立ったが、今度は球団消滅というまさかの事態に遭遇する。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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