心抉られた“引退勧告” 丁寧な封書に美しい文字…感じた阪神ファンの本気度「腰砕けた」

湯舟敏郎氏は低迷時代の阪神で2年連続“最多敗戦”投手に
阪神低迷時の主力左腕・湯舟敏郎氏(野球評論家)は1995年13敗、1996年14敗と2年連続セ・リーグ最多敗戦投手の屈辱を味わった。その間のチームはいずれも最下位。「あの時は負けを引きずりましたね。いつも打たれるんじゃないかって……」。今で言うクオリティスタート(6回以上、自責点3以内)で投げ終えても敗戦投手になれば責任を感じ、それが次の試合にも悪影響を及ぼした。ファンから封書で“引退勧告”を受けたこともあったという。
プロ5年目、1995年の湯舟氏は2年連続で開幕投手に指名されたが、思うような成績を残せなかった。33登板、5勝13敗1セーブ、防御率3.96。常に黒星先行の悪い流れを断ち切れなかった。シーズン前半までで中村勝広監督が休養し、後半戦からは藤田平2軍監督が1軍監督代行を務めたが、チームは最下位に沈んだ。13敗はこの年のリーグ最多敗だが、阪神では藪恵壹投手も13敗(7勝)だった。
「今から考えたら、あれだけ負けて、よう僕を使ってくれたなって思いますけどね」。それがプロ6年目の1996年も続いた。この年は開幕2戦目の4月6日の巨人戦(東京ドーム)に先発し、打線の援護を受けて6回4失点でシーズン1勝目をマークした。2登板目の4月13日の広島戦(甲子園)は7回4失点で敗戦投手になったが、3登板目の4月21日の巨人戦(甲子園)では6回2失点で2勝目と白星先行。だが、その後は黒星を増え続けていった。
結局、1996年は29登板、5勝14敗、防御率4.84と、前年よりさらに精彩を欠いた。14敗は、2桁勝利の11勝を挙げながら14敗を喫した藪とともに2年連続リーグワーストの不名誉。チームも2年連続最下位で、シーズン終盤には藤田監督が休養し、柴田猛チーフ兼バッテリーコーチが監督代行に就任する事態にもなった。「(5勝)14敗ですもんね。ひどいですよね。いやぁ本当によう使ってくれましたよ。感謝しかないですね」と湯舟氏は改めてしみじみと話した。
そして、こう続けた。「負けを引きずってしまうことがやっぱりありましたよ。いつも打たれるんじゃないかな、とかね。振り返れば、あの頃はゲームを作るなんて考えを持っていなかったと思う。チームとして考えた方がもっと楽にできたんじゃないかなってね。0点で抑えたいから無理するんですよ。で、フォアボールになる。次はフォアボールも許されなくなって、今度はガツーンと打たれる。たぶん、そういう負けが多かったと思います」。
立場変わってのしかかる責任「自分に過度な期待をしていた」
プロ入り当初はそんな思考ではなかったという。「(当時1軍投手コーチだった)大石(清)さんから『5回2点で』ってよく言われていたんです。“先発の最低限の仕事かもしれないけど、5回の中では100点や、それくらいの気持ちでいきなさい”ってね。勝ち負けばかりにこだわるなってことだったと思うし、僕自身も最初の頃は大石さんに言われてそういうふうに考えていたと思う。でもそれが(5年目や6年目には)だんだんと薄れていって……」。
開幕投手を任されたりする立場になって変わったのかもしれない。「結局、自分が勝ちたいわけですよ。3点で勝てなかったら、次は2点、それでも駄目なら1点とか、完封とか、何か自分の力量を無視したというか、自分の持っていない力量まで出そうとしたというか……。持っていないから出せるわけがないのに無理をした。自分を追い込んで、自分に過度な期待をしていた。それが今になって、すごく感じられる。今の選手はゲームを作るとか、よく口にするでしょ」。
負けが込めばファンの視線も厳しくなる。「“やめろ”とか書いてあるハガキはしょっちゅう送られてきました。そういうハガキには(差し出し人の)名前とか住所とかは書いてありませんけどね。ただ、その頃に封筒で来たのがあって、それには、その人の住所、氏名が書いてあったんですよ。しかもメチャクチャきれいな字で、丁寧に『やめてください』って……」。見た瞬間に「腰砕けました。すごいなぁ、本気やなぁって思いましたよ」と衝撃の“引退勧告”だった。
「“やめろ”とかは普通、怒りに任せて書いているなぁっていうのが字を見てもわかるじゃないですか。でも、あの封筒の『やめてください』(の内容)は冷静に、丁寧に“です、ます調”だったんです」と、かなりグサリときたわけだ。「まぁ(あの成績なら)そう思われますよね。僕が応援する側でもそう思いますもん」。湯舟氏はそう話して苦笑したが、2年連続のリーグ最多敗&チーム最下位は精神的にも相当大変な日々だったようだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)