阪神から移籍直後に「僕は終わった」 突然の“異変”…全てが狂い、戦力外に「だろうな」

阪神、近鉄でプレーした湯舟敏郎氏【写真:山口真司】
阪神、近鉄でプレーした湯舟敏郎氏【写真:山口真司】

移籍した近鉄で湯舟敏郎氏を悩ませた“異変”

 2000年オフに阪神から近鉄にトレード移籍した湯舟敏郎氏(野球評論家)は、新天地では1シーズンだけで現役を引退した。梨田昌孝監督率いる近鉄がパ・リーグを制覇した2001年に37登板、1勝0敗、防御率5.35の成績でヤクルトとの日本シリーズ前に戦力外通告を受けた。「迷惑しかかけていなかったから、だろうな、しかなかったです」。実はその年の春季キャンプ中から暗雲が立ちこめていた。「イップスになって……。それで僕は終わったんです」と明かした。

 かつての虎のエースが34歳で近鉄に移籍。プロ11年目で初めてパ・リーグを経験することになった湯舟氏は2月の宮崎・日向キャンプで自身の“異変”を感じ取った。「イップスになったんです。送球も、投球も、キャッチボールもどうやったらいいのかなって、わからなくなりまして……」。きっかけは投内連係だったという。「投内でサードに投げる時、これまでは捕って1歩で投げていたのをもう1歩、ステップを増やしたんです。そしたら何か合わなくなって……」。

 これにはベテランの年齢になっていたことが関係していた。「(その年の10月で)35歳にもなるのだから、何でもできて当たり前のようなことをしないといけない、それをみんなに見せないといけない、みたいな、勝手にそんな変な考えを持っていました。投内のサードへの送球もそれまでの阪神では、たぶんサードがちょっと見づらいけど捕ってくれていたんです。でもチームも変わったし、捕りやすいように投げようと考えてステップを増やしたんですが……」。

 よかれと思ってやったことが裏目に出た。「投げると引っかかりは出るし、抜けは出るし、何かおかしいよ、おかしいよねってなって、今度はセカンドへの送球もおかしくなって。もうアレっ、これはアカンって。で、すぐに外されて、まぁまぁ、どうしたんや、みたいな感じで……。それからはもうすべてが狂いました。ピッチングもおかしくなった。抜けちゃあまずいと思って投げて、今まで張ったことがないようなところが張ったりだとか……」。

 自分で自分をおかしくしたという。「結局は上手に何かしようとしたっていうんですかね。なんかカッコつけていたんですよ。何でもできますって顔をしたかったわけです。でもうまくいかなくて、悩み出して……」。それでも2001年は開幕戦(3月24日の日本ハム戦、東京ドーム)に6番手で登板(1/3無失点)するなど、トータルでは37試合に投げたが「それも(1軍)投手コーチの小林(繁)さんが何とかして使おうとしてくれたからなんです」と話した。

 先発は4月3日のロッテ戦(大阪ドーム)の3回2/3、1失点だけで、あとはすべてリリーフだった。「それしかもう任せられないわけですよ。(1試合だけの)先発の時もボールばっかりだったと思いますし……」。シーズン10登板目の4月25日の西武戦(大阪ドーム)では3-2の4回途中から3番手で登板して3回1/3、1失点で移籍後初勝利を挙げたが、これが通算60勝目の現役ラスト勝利になった。

「あの時は(西武の)バッターが早打ちだったと思いますし、近鉄に入って、一番調子がいいゲームやったんじゃないですかねぇ」。もはや阪神時代とは違う感覚で投げていたという。「ストライクを入れることが目標なんですよ。普通、ヒットを打たれたら“クソっ”て自分が投げた球に反省点も出てくるでしょ。それが出てこないんです。“よかったぁ、ストライクが入って”なんですよ。恥ずかしい限りというか、もうピッチャーじゃなくなっているわけですよね」。

球団から告げられた戦力外「迷惑しかかけていなかった」

 そんな状況での37登板だから、梨田監督にも小林投手コーチにも「ほんまに投げさせてもらったって感じだったんです」と話す。さらには「ダイエー戦で、マウンドに出ていく時に小林さんに『この回0点で帰ってこい』って言われたんです。あっ、そうか、ストライク、ボール、ヒットとかじゃなくて0点で帰ればいいんやって、その時は思えて2イニングを抑えたんです。もうちょっとでホームランという当たりばかりでしたけどね」とも付け加えた。

「まぁ、その後、それを続けられないところが僕の甘さっていうんですかね……。だから、その時だけだったんですけど、小林さんのその言葉はメチャクチャ響きましたねぇ」と感謝している。その間には2軍落ちもあったが、いろんな配慮も受けて、積み重ねた37登板でもあったわけだ。湯舟氏が1軍で最後に投げたのは5番手で1/3、1失点だった9月8日のダイエー戦(大阪ドーム)。それが結果的には現役ラスト登板となった。

「その年に近鉄が優勝したのでよかったですよ。だいぶ邪魔しましたけど、それでも優勝したんでね」と湯舟氏は笑みを浮かべた。その後、球団から戦力外を告げられた。「自分から辞めるとは言いませんでしたけど、もう迷惑しかかけていなかったですもんね。言われた時は、あ、だろうな、しかなかったです。そりゃあ、そうよねって。投げられていないのだから、どうしようもないですもんね」。そう振り返ったが、近鉄移籍後のイップスは計算外だったに違いない。

「それまでにイップスになった後輩に『いやもう、思い切ってストライクゾーンに投げたらいいやん』みたいな、ホンマにすごい勝手なことを言っていたなぁって、その年に反省しました」。虎のドラフト1位、虎のノーヒッター、虎のエース……。いろいろあった11年間の湯舟氏のプロ生活は、そんな形で幕を閉じた。通算成績は60勝79敗3セーブ、防御率3.99。「一応、3点台だよなぁってね。誇れる数字ではないけど、よく使っていただいたと思う」としみじみ振り返った。

「こんなことを言ったら怒られるかもしれませんけど、自分はプロ野球に入るなんて思ってもいないところから始まってますので……。2、3年やれたらええんかなぁくらいで首を突っ込んだところが少なからずあったのでね。最後はちょっとイップスになってしまいましたが、11年間、プロ野球の場に身をおけたっていうことも僕の野球人生の中で、非常に輝いた部分です。苦しいことも結構ありましたけど、それも含めて、感謝すべき11年間でした」

 貝塚リトル・シニア、興国高、奈良産業大(現・奈良学園大)、本田技研鈴鹿、阪神、近鉄と湯舟氏は様々な経験をしながら、現役選手としての野球人生をやり抜いた。阪神低迷期を支えた左腕はこの後、コーチ、野球評論家としても力を発揮する。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY