小3からの新聞配達で習得…大人と会話で鍛えた“話術” 広島名捕手、ささやき戦法の原点

広島で活躍した達川光男氏【写真:山口真司】
広島で活躍した達川光男氏【写真:山口真司】

広島市出身の達川光男氏は1977年ドラフト4位で東洋大から広島入り

 プレーでもパフォーマンスでもプロ野球ファンを沸かせた名捕手が達川光男氏だ。広島商、東洋大を経て1977年のドラフト会議で広島に4位指名されて入団。インサイドワークに定評があり、1984年、1986年、1991年には正捕手として広島の優勝に貢献した。特徴ある死球アピール、ささやき戦術でも知られ、現役引退後も指導者など多方面で活躍し、今なお人気を博すが、その野球人生の基を築いたひとつには少年時代のアルバイトがあった。

 1955年7月13日生まれ、広島市出身の達川氏は広島市立牛田小学校3年2学期から広島市立牛田中学校3年まで新聞配達をしていた。「あの6年間は朝5時に起きて行っていた。雨が降ろうが自転車でね。遅くても6時半までには配り終わらなければいけない。不配したら、すごく怒られるんですよ」。それだけでなく「お中元、お歳暮の季節にはそれも配りました。何件くらい配ったかは忘れたけどね」と話した。

 新聞配達ではこんな思い出があるという。「あの当時(バイト代は)1日100円だったんですけど、ある老夫婦の家に配達に行くと『大変だけど、頑張ってね、ボク』って毎日100円くれたんですよ。新聞を読むのが好きだったんだろうね。すごい楽しみにしてくれてね。そこには丁寧に入れましたよ」。新聞代の集金も行い、いろいろな人と接した。「ちっちゃい頃から大人に対応する訓練をしていたような気もする、自然にね。どうやったら怒られないとか……」。

 巧みな“話術”の原点かもしれないが、配達作業では体も鍛えられた。「(歌手の)山田太郎さんの“新聞少年”って歌が流行っていた。『僕のアダナを知ってるかい 朝刊太郎というんだぜ 新聞くばってもう三月 雨や嵐にゃ慣れたけど』って。梅雨時分に雷がゴロゴロなってさ、濡らしたらいけないから、当時もビニール袋に入れてさ、必死に抱えて、持っていった。おかげで精神的にも肉体的にも強くなったと思う。それはメチャクチャ大きかったと思います」。

 野球は柔らかいボールを使った“手打ち野球”からスタート。「そのうちバットを持ってそのボールを打つようになるんですけど、今思うと、あれで動体視力が鍛えられた。空気抵抗でプロが投げるような変化球が投げられるわけだから。すごい効果的だった。私らの頃はセミをとるのに、木にこっそり登ったりしていたし、自然の中でウエートトレーニングもしていた感じですね」。小学校低学年からはソフトボールもやりだした。

幼少期から地元のカープファン「選手の名前を全部覚えたよ」

「公園が近くにあって、お兄さんがたというか、年上の人がやっていてね。狭い公園だったから土手があって、そこまでいくとホームランになるんだけど、最初は、そこで球拾いをさせられていた」。その頃から運動能力は高かったそうだ。「上の人たちがそろばんとか習字とか、習い事に行って人数が足りない時にはやらせてもらった。言い方は悪いけど上級生よりも(自分が)上手だったよ」。

 その一方で、よくいじめられたという。「まぁ、何かにつけて生意気な顔をしていたんだろうと思う。いつも鼻血を出したりして帰っていた。殴られたり、わけもなく足のすねを蹴られたりとか……。そういうこともありましたね」。ライバルもいた。「体力テストってあるじゃない。その50メートル走で、勝てない同級生が1人いた。小学校の運動会では低学年の時は覚えていないけど、4年、5年、6年では、彼がいたから2着、2着、6着だったよ」と語る。

「6年の時になんで6着かといえば、彼に勝ってやろうとインコースに入って走っていたら、まくってこられて、その時に足が引っかかって転んだ。で、最下位。あれは一生忘れない」と悔しそうに振り返った。さらにソフトボール投げでも別の同級生に負けたという。「55メートルを投げて、先生にすごいって言われていたら、57メートルを投げた人がいて……。ソフトボール投げは絶対一番になるってやったんだけど、勝てなくて、あれも悔しかったな」。

 そんな幼い頃からのいろいろな出来事が、達川氏の“基盤”になったのは間違いない。プロ野球は地元の広島カープファン。「親父も野球が大好きでよく(広島)市民球場に連れていってもらった。カープの選手の名前を全部覚えたよ」。カープ熱もどんどん高まっていった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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