「ヒーローになるはずだった」最後の夏 甲子園Vで注目は相棒に…荷台で味わった歓喜

元広島・達川光男氏【写真:山口真司】
元広島・達川光男氏【写真:山口真司】

達川光男氏は広島商3年夏に正捕手として全国制覇を成し遂げた

 激闘続きだった。1973年の夏の甲子園は広島県立広島商が制し、春の選抜準優勝の無念を晴らした。元広島の達川光男氏はその時の正捕手。実力+アイドル的人気だった左腕・佃正樹投手とのバッテリーで頂点を極めたが、道のりは決して平坦ではなかった。広島大会では3回戦・庄原実戦での延長15回サヨナラ勝ちなど冷や汗試合もあったし、甲子園でも決勝の静岡戦はサヨナラスクイズでの栄冠だった。

 その年の広島商は春の選抜で怪物右腕・江川卓投手を擁する作新学院を準決勝で撃破した。決勝は横浜に敗れたものの、注目度は大幅にアップした。「選抜の後は毎週土、日曜は招待試合だったので、広商のグラウンドでゲームをしたことがなかったと思う」。それでもおごることはない。選抜準優勝の悔しさを持って練習を重ね、夏の広島大会を迎えた。1回戦は海田に7-0、2回戦は松永に13-0と力の差を見せつけて勝利したが、3回戦の庄原実戦が思わぬ展開になった。

 2-0の3回に3点を取られて逆転された。6回に同点に追いついたが、試合は延長戦に突入。15回に何とかサヨナラ勝ちを収めた。「際どい試合だった。野球の怖さというか、こっちが打ったのが正面に行き、向こうが打ったのはイレギュラーしたりとか、いろんなことが起きましたしね」。その試合が広商ナインに気合を入れ直させた。「あのあと(野球部長の)畠山(圭司)先生がずっと言っておられましたよ。私たちが、日本一になれたのは庄原実のおかげだってね」。

 広島大会は庄原実戦以降も苦しい戦い続きだった。「(準決勝の)尾道商戦も初回に4点取られたけど、コツコツ点を取って追いついて延長10回にサヨナラ勝ち。(広島)市民球場での試合で、広島-巨人戦が後に控えていて、その回までで(決着がつかなければ)再試合になるところで勝った。(広島商OBの大先輩)鶴岡一人さん(元南海監督)が巨人戦の解説に来ておられて『君、うまいなぁ。頑張ってプロ野球に入りなさい』と言われた。それは今でも覚えています」。

 夏の甲子園切符をつかんだ決勝の崇徳戦も4-2。「(崇徳左腕の)藤原(仁投手、元阪神、日本ハム)に5回までノーヒットに抑えられていた。6回に崩れたけど、後で聞いたらお腹の調子がよくなくて、力が入らなくなったらしい。フォアボールとエラーなどで4点取ったけど、広島では一番いいピッチャーでしたよ」。これもまた、まさに紙一重の戦いだったわけだ。

エース・佃正樹の人気は大沸騰「ファンレターの数もすごくてね」

 甲子園では江川の作新学院が2回戦で銚子商に敗戦。春優勝の横浜は神奈川大会で姿を消していた中、広島商は前評判通りに勝ち上がった。達川氏も準々決勝の高知商戦で鹿取義隆投手(元巨人、西武)から本塁打を放つなど活躍。当初は指揮官に相性がよくないと言われたエース・佃とのコンビも日を追うごとに様になり、強力バッテリーと呼ばれるようになった。「佃から声を出してリードしてくれと言われた。マウンドの佃を孤独にさせたらいけないと思うようになった」という。

 この夏の甲子園大会中には3年生と2年生の間がギクシャクしたり、チームのムードがよくない時もあったそうだが、それも何とか乗り越えた。そして静岡との決勝戦は劇的な幕切れとなる。2-2の同点で迎えた9回裏1死満塁で、途中出場の大利裕二外野手がスリーバントスクイズを決めて、全国制覇を成し遂げた。しかも最初から迫田監督に「2ストライク後に行くぞ」と指示されていたという。常にバントは1球勝負で練習してきた成果でもあった。

「あの試合、ヒーローは私がなる予定だったんですけどね」と達川氏は笑う。「あの回、楠原が出塁して無死一塁になって監督に呼ばれたんですよ。『(次々打者の)お前で勝負する。(次打者の)町田にはバントで送らせるから』ってね。そしたら、町田がフォアボール。で、私が送りバントをすることになったんです」。達川氏がきっちり送り、次の打者の川本内野手が敬遠され、1死満塁。そして大利外野手の劇的サヨナラスクイズとなったわけだ。

 全国制覇を果たした広島商ナインは広島で優勝パレードを行った。「駅を出た瞬間、びっくりしましたよ。広島にこんなに人がいたのかと思うくらい、集まってくれたのでね。パレードは監督と部長と佃と(主将の)金光らがオープンカーで、あとはみんなトラック。私もトラックに乗って手を振っていました」と達川氏は懐かしそうに話す。「グラウンドにも女学生がいっぱい。みんな佃を見に来ていた。あれもすごかった。佃の人気はすごかったですよ」。

 いろいろあった広島商時代だが、最後は最高の形で終わった。「佃へのファンレターの数もすごくてね。彼は佃正樹、佃正樹って返事のハガキに、ずーっと書いていましたよ」。そんな青春時代の相棒である佃氏は2007年に病気のため、52歳の若さで亡くなったが、達川氏は、あのマウンド姿を決して忘れることはない。春の選抜準優勝、夏の甲子園優勝の思い出とともに……。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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