野次にブチギレで炎上…大敗で逃した甲子園 「あとは遊べるな」咄嗟に演じた“涙”

「真っ直ぐで来い」→怒りの直球を痛打…6回2/3でKO
元阪神投手の中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火焼肉 伸」店主)にとって、1987年の甲府工2年夏の山梨大会決勝・東海大甲府戦は忘れられない一戦でもある。7-15でまさかの大敗を喫して、甲子園を逃したが、これは相手からの強烈な“野次・挑発作戦”にまんまとハメられた結果でもあったという。「罠があるのに、そこに自分で行ってしまった」。冷静さを完全に失って、いつもの投球ができなかったのだ。
中込氏は「まぁ、向こうの作戦でしたよね」と苦笑しながら、当時を振り返った。その年の春の選抜に続く甲子園出場がかかった決勝戦はボロボロの負けだった。後に阪神でチームメートになる同い年の久慈照嘉内野手が「4番・遊撃」の東海大甲府打線に17安打を許して、6回2/3でKOされた。5回に1点先制され、6回に4点を追加され、さらに7回には9点を奪われる“惨劇”だったが、このまさかの結果を招いたのが、相手の挑発に乗ってしまったことだ。
東海大甲府は、中込氏の短気な性格を見越して、マウンド上でカッカさせて通常の投球ができないようにヤジり倒してきたという。普通に戦っての攻略は難しいと考えてのことだったようだが、それにまんまとしてやられた。「僕はそういうのにすぐハマっちゃいますから。間違いなくハマっちゃいましたよね。(打席から)『真っ直ぐで来い!』とか言われたら、もう変化球を投げるわけがない。で、真っ直ぐを投げて、ボコボコに打たれて……」。
完全に冷静さを失っていたそうだ。「あの時にね、一番、いろいろ言っていた選手は、その時以来、僕の前に現れていないですけどね(笑)。ホント、もう当てちゃおうかなって思ったくらいの“あれ”でしたからね」。それでもこう続けた。「スポーツマンシップにはのっとっていなかったけど、僕も罠があるのに、そこに自分で行っていますからね……。まぁ、それも思い出ですよ。夏に甲子園にいかなかったことで、夏休みもあったしね」。
全力疾走で息切らし…監督から蹴り「何、はぁはぁしているんだぁ!」
甲府工には定時制に入学し、1年後に全日制に入り直したため、この夏は2年生の立場ながら、高校野球では実質、最後の夏。それが屈辱の大敗で幕を閉じたわけだが、ゲームセットの瞬間は逆に冷静だったようで「一応、周りが悔しそうな顔をしているから、自分も悔しがらないといかん、泣くふりもしないといけないなって思った。何よりもやっと高校野球が終わったなっていう感じだったかな」と話す。
「だってね、高校の練習はとにかくきつかったですから。(原初也)監督の僕への当たりも強かった。僕を(厳しく)やっといたら、みんながちゃんとするって感じだったんじゃないですかねぇ。800メートルを全力で走って、座って、はぁはぁ言っていたら、『何、はぁはぁしているんだぁ!』って蹴られましたから。メチャクチャやなぁって思いましたよ。でも、そうしたら、周りが本当にピシッとしていましたもんね」
ただし、どんなに厳しく指導されても、遊び回っていた中学3年の時に、熱意を持って野球の道に導いてくれたなど大恩人である原監督に対する気持ちは何ひとつ変わらなかった。「やっぱり原監督がいろんなことをしてくれたというのがありますからね。もう親に殴られているような感じだったんですよ。他人じゃないっていうかね。他人だったら僕は『何や!』って言っちゃうけど、原監督は違う。親以上に僕のことを考えてくれた。もうホント親みたいだったんです」。
最後の大敗で、春夏連続の甲子園出場はならなかったが「選抜に出られたことで、ある程度、山梨では原初也監督って名前も広まって、よかったなぁというのもありました」という。「夏は負けたけど“終わった、終わった、夏休みもつぶれなかったし、あとは遊べるな”って思ったもんですよ」。そんな高校生活は、あと1年残っていたが、ここから中込氏の野球人生は急展開する。阪神からの誘い。プロ入りへの道が開かれていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)