阪神がドラ1獲得に使った“裏技” 耳にした強行指名の噂も…丸く収めた「暗黙の了解」

元阪神・中込伸氏【写真:山口真司】 
元阪神・中込伸氏【写真:山口真司】 

神崎工に編入…当時の“裏技”で阪神入り

 NPB通算41勝右腕の中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火焼肉 伸」店主)は1988年のドラフト1位で阪神に入団した。山梨県立甲府工のエースとして1987年の春の選抜に出場して8強入りに貢献し、プロからも注目されていたが、ドラフト時の立場は定時制の兵庫県立神崎工に通う阪神球団職員。現在ではできない“囲い込み策”によるもので、背番号99のタイガース練習生として1シーズンを過ごした上での指名だった。

 1987年夏、甲府工は山梨大会決勝で東海大甲府に敗戦。中込氏は当時、高校2年だったが、入学時が定時制で、1年後に全日制に入り直して高校1年を2回繰り返していたため、高校野球はこの時点で事実上、終わりだった。その後については当初、残り1年の高校生活を終えた後に社会人野球入りが考えられていたという。「(甲府工の)原(初也)監督が日産自動車出身だったし、日産とか、どうだろうなんて話もでていました」。

 甲府工の剛腕としてプロからも注目されていたが、どこの球団が、どのような評価をしていたかは全く関知していなかったという。「その辺は大人の話だから、ちょっとわからなかったですね」。ちゃんと耳にしたのは阪神からの誘いだけ。それが、定時制の兵庫・神崎工に編入して、阪神の練習生としてやってみないか、というものだった。聞いた時は「そんなやり方もあるのか」と思うばかりだったそうだ。

 1981年西武ドラフト1位の伊東勤捕手は定時制の熊本工から定時制の所沢に転校し、昼間は西武球団職員でもある練習生となった後にプロ入りを果たした。中込氏と同じ1988年のドラフト会議で中日に2位指名された大豊泰昭内野手は日本人選手扱いとして入団する資格年数を得るために名商大卒業後、1年間、中日球団職員になった。有望選手を囲い込む手法。現在は認められないが、当時は裏技のひとつにもなっていた。阪神もそれを使って中込氏獲得に動いたわけだ。

 そもそもは阪神・田丸仁スカウトが、法大の先輩でもある甲府工・田名網英二総監督に、この球団職員・練習生プランを持ちかけたのが始まりだったが、その誘いを中込氏も受け入れた。「プロ野球選手になりたいな、という思いもあったのでね。『そんな道もあるよ』と提案されて『行きます』と言いました」。もちろん、恩師の原監督もOKしてのことだ。「(甲府工で)高校生活を続けさせたら僕がまた遊び回るだろうから、それなら阪神に預けた方がいいんじゃないかって、原監督も考えたんじゃないですかねぇ」。

背番号「99」の練習生…日中は野球、電車移動で学校へ

 幼い頃から巨人ファンの中込氏も「その時はジャイアンツ相手に投げたいという気持ちになっていました。田丸さんにも一生懸命してもらったし、関西に行くのもいいかなってね」と話す。1988年、神崎工に編入し、阪神練習生となった。背番号は99をつけた。「僕が『99がいいです』と言いました。その頃は100番台がなかったから、練習生だし、一番最後の数字がいいと思ったのでね」。

 阪神合宿所「虎風荘」で暮らし、日中は練習生としてグラウンドで汗を流し、それを終えると甲子園駅から阪神電車に乗って学校に通った。「寮に帰ってくるのは(午後)9時半とか10時になるけど、寮のおばちゃんが僕だけのために、その時間まで残って御飯を用意してくれました。迷惑をかけましたよ。ありがたかったです」。そんな日々を続けた。

 コンディションも良かったという。「(他球団との)試合には投げられなかったけど、シートバッティングとかで投げた。あの時は、これはいけるなって思いましたよ。思ったところにボールが投げられましたからね。コーチからも『お前、凄いじゃないか』って言われていました」。そんな手応えをつかんだ上での阪神ドラフト1位指名だった。他球団からの横やり指名への不安も全くなかったそうで「もう暗黙の了解というかね」と振り返った。

 ただし、後々になって“ある球団が当時、中込氏の強行指名を考えていたけど、結局、道義上のことで諦めた”との噂を耳にしたそうだ。「それは本当か嘘かわかりませんけどね。面白話で言われていただけかもしれないし……」というが、それほどの逸材と評価されていたのは間違いない。正式に阪神の一員になる際に、球団からは背番号20への変更を打診されたが「今のままでいいです」と断って99番のまま、虎のドラ1としてのプロ生活が始まった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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