阪神“2大スター”に女性ファン急増で…自覚した場違い V逸の裏にあった失態「超浮かれていた」

阪神時代の中込伸氏【写真提供:産経新聞社】
阪神時代の中込伸氏【写真提供:産経新聞社】

「亀新フィーバー」で大盛り上がり、中込氏も4年目でブレーク

 1990年代の阪神は最下位6回、5位1回、4位2回と低迷期に陥った。そんな中、唯一、優勝を争って2位になったのが1992年シーズンだ。亀山努外野手と新庄剛志外野手の「亀新フィーバー」でも大盛り上がりだったが、元阪神右腕の中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火焼肉 伸」店主)が主力投手に成長したのも、その年。「あの時はちょっと浮かれていました」と話し、苦笑しながら「亀山、新庄と僕の3人の写真集を出したけど大コケで……」と振り返った。

 阪神本拠地甲子園球場からラッキーゾーンが撤去された1992年に巻き起こった「亀新フィーバー」。それまでは無名に近かった2人の若虎が一気に攻守で主役級の働きを見せ、加えてチームもずっと優勝争いを繰り広げたことで、一大ブームとなった。亀山のヘッドスライディングは名物になったし、シーズン途中から中堅手に定着した新庄は守備範囲の広さ+強肩で何度も魅せた。2人とも男前とあって女性ファンが急増、あっという間にスター選手になった。

 前年(1991年)まで通算1勝だった中込氏もプロ4年目のこの年に飛躍した。先発ローテーション投手として活躍し、オールスターゲームにも監督推薦で初出場を果たした。前半6勝、後半3勝の計9勝で、2桁10勝まではあと1勝足りなかったものの、防御率2.42は大洋・盛田幸妃投手の2.05に続くセ・リーグ2位の成績を残した。そんな年のことで、思い出されるのが写真集の一件という。

「その年のシーズン中に、知り合いの方から『亀山と新庄の写真集を出したいんだよね。球団に言ってくれないか?』みたいなことを頼まれたんです。で、『俺も(その写真集に)出してくれるなら(球団に)言うよ』と言ったんですよ。(知り合いは)『うーん』って言っていましたけどね、最後には『わかった、そういう話でいい』ってなったんです」。そこから、この話はどんどん進展していったそうだ。

「球団に僕が『こうこうこういう話がありますよ』って伝えました。亀山と新庄にも、まぁ普通に……。亀山は“同級生”だったし、そういうあれもあってね。それで、3人の写真集を出すことが決まったんです」。しかしながら、当時を思い出しながら中込氏は「まぁ、浮かれていましたよね。超浮かれていた。調子こいて、シーズン中なのに、地方に行った時に、昼から写真を撮ったりしていましたからねぇ」と恥ずかしそうに話す。

元阪神・中込伸氏【写真:山口真司】 
元阪神・中込伸氏【写真:山口真司】 

いまだに繋がる2人…新庄は「お酒を飲まないし、群れない」

 結果的にチームは優勝を逃してしまったし、その年の12月に発売した『中込伸+亀山努+新庄剛志写真集 タイガースの革命児』の売れ行きの方も……。「大コケですよ。全然、売れなかった。僕が入ったせいでね。何で亀山と新庄だけじゃないのって言われたし……」と苦笑しきり。「今、ウチの店に、その写真集を持ってきて、サインしてくださいっていう人もいるんですよ。『嫌なもんを持っているねぇ』と言っていますわ」とまるで“黒歴史”のようにも説明した。

 そんないきさつもあった亀山、新庄とは今も付き合いが続いているという。「亀は(甲子園での)仕事の終わりに(店に)寄ってくれたりしますしね。(日本ハム監督の)新庄も、こっちで試合があった時に来たことがありますよ。ウチの店のTシャツがあるんだけど、新庄に『これを明日、球場で着てくれ』と言ったら、ちゃんと着てくれたんですよ。練習の時にね。普通は着れないですからね。めちゃくちゃやけど、かわいいですよ」と目を細めた。

「新庄はお酒を飲まないし、群れないし、真面目ですよ。言っていることはハチャメチャかもしれないけど、やることはちゃんとやる。まぁバッティングはあれだけど、守備はもうすごかったから。メチャクチャ助かった。僕が(阪神に)いた時の亀山、新庄っていうのは右中間を越えなかったからね」。亀新フィーバーとともに1992年にブレークした中込氏だけに、なおさら2人には思い入れもあるのだろう。写真集のことも含めて……。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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