歴史的なV逸「あそこで負けるのが阪神」 監督が“優勝宣言”も…忘れぬ33年前の悪夢

1992年、阪神時代の中込伸氏(中央)【写真提供:産経新聞社】
1992年、阪神時代の中込伸氏(中央)【写真提供:産経新聞社】

元阪神・中込伸氏が語る1992年のV逸

 あの時、完投していたら……。元阪神右腕の中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火焼肉 伸」店主)にとって、主力投手に成長したプロ4年目の1992年は思い出の多い年だが、やはり、悔しいのはV逸に終わったことだ。2位に3ゲーム差をつけ、9月22日からのロード13試合を5勝8敗でも有利と見られていたのが、3勝10敗と失速してヤクルトにひっくり返された。「あそこで負けるのが、あの頃の阪神だったのかなぁ」とつぶやいた。

 勝負の世界に「たら」「れば」は禁物でも、1992年の阪神を振り返れば、どうしても、そういう言葉が出てくるというものだろう。それほど惜しかった。すぐ、そこまであった優勝がまさにスルリと……。「(当時の阪神監督の)中村(勝広)さんが(最後のロードに出る前に)“大きいお土産を持って(甲子園に)帰ってきます”と言ったんでしたよね。だって(2位に)3ゲーム(差)でしよ。(そこから)5割だったら十分だったのだから、そりゃあねぇ」と中込氏も無念そうに話した。

 ロードに出る前の9月19日の大洋戦(甲子園)に中込氏は先発して、1失点の無四球完投勝利で9勝目を挙げた。チームのムードも最高潮で、中村監督の自信に満ちた発言にもつながったわけだが、そこから、まさかの失速でV逸。中込氏も、それ以降は好投しても勝ち星をつかめず、2桁勝利にも、あと1勝、届かなかった。「(優勝を)意識はしていなかった。やっぱり、それが実力だったんですよ」。

 なかでも痛恨の敗戦だったと言われるのが、3-1の9回に逆転サヨナラ負けを喫した10月7日のヤクルト戦(神宮)だ。その試合に先発していたのが中込氏で、中4日でのマウンドながら、抜群の投球でヤクルト打線を翻弄していたが、完投目前の9回に1死一、三塁のピンチを招いて降板。リリーフの湯舟敏郎投手が連続四球で1点差に迫られ、3番手の中西清起投手が同点打とサヨナラ打を浴びる悪夢のような展開だった。

「9回(の交代)は僕にまだ、そこまで信用がなかったってことですよ。3-1だったから別に犠牲フライで3-2になっても……。やっぱり、そこはずっと投げている僕よりも新鮮な人がいいんじゃないかって判断でしょうね。湯舟さんも中継ぎではなかったけど、監督としたら、あそこはいいピッチャー、いいピッチャーってなりますもんね。でも、あの時、僕が(走者を出さずに)完投していたら、あの年に優勝していたら、もっと違うあれ(野球人生)があったかなぁ」

元阪神・中込伸氏【写真:山口真司】 
元阪神・中込伸氏【写真:山口真司】 

防御率はリーグ2位の2.42、フル回転でも「何かおかしいな」

 この年の中込氏はとにかく投げまくった。1完封を含む7完投だが、それ以外にも5月27日の大洋戦(甲子園)では11回3安打1失点(試合は延長15回2-1でサヨナラ勝ち)、7月14日のヤクルト戦(甲子園)は11回5安打2失点(試合は延長13回2-4で敗戦)など、長いイニングを投げ、球数も多かった。「あの頃は140球なんて平気でありましたからね」。最終的には200回2/3を投げて、防御率はリーグ2位の2.42だった。

「この2位っていうのが、またいいでしょ。1位じゃなくてね(笑)。そういうことですよ。10勝できなかったのもそう。そこが僕の人生みたいなものだから。もうちょっと頑張ればいいのにっていうね。それは運ですよね。でも今は(焼き肉店を経営し)その運を、またもらっているから、行ってこいですけどね」。そう話した中込氏だが、実は、この1992年シーズンの夏場あたりから右肘の違和感も抱えていたという。

「何かおかしいな、おかしいなっていうのがあって、ごまかし、ごまかしで投げていた感じでした」。チームが優勝争うなか、離脱は必死で回避した。そんな状態でのフル回転だった。9勝と防御率2.42はいずれもNPB時代のキャリアハイ。やれることはやった上での結果だったとはいえ、なおさらV逸は悔しかったことだろう。そして、この時の右肘不安が後々に響いてくる。また苦しい時期が近づいていた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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