ボロボロだった右肘…わずか130キロの直球に「おかしい」 名医に聞いた“まさかのお願い”

5年目の1993年も199イニングを投げたが…痛みは限界に
元阪神の主力右腕・中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火焼肉 伸」店主)はプロ5年目の1993年オフにトミー・ジョン手術(側副靱帯再建術)を受けた。その年は28登板、8勝13敗、防御率3.71の成績を残したが、右肘の状態が悪く「もうごまかし、ごまかしで投げただけ。真っ直ぐもスピードが全然出ていなかった」という。米国へ行き、名医で知られるフランク・ジョーブ博士の検査を受けたところ、手術を勧められて「じゃあすぐしてください」と即決したそうだ。
プロ4年目の1992年に200回2/3を投げて9勝8敗、防御率2.42とブレークした中込氏だが、それは夏場過ぎあたりから右肘痛に悩まされながらの結果でもあった。そこからオフに入り、少し回復し、5年目(1993年)に突入したが、開幕3戦目、シーズン初登板の4月13日のヤクルト戦(甲子園)で再び、右肘の痛みとの戦いが始まったという。「その試合にね、すごい投げたんですよ。それで、もっとおかしいって感じになって……」
その日の中込氏は12回10安打2失点で降板(試合は延長13回裏に阪神が3-2でサヨナラ勝ち、2番手の御子柴進投手が勝利投手)。それ以来、前年同様のごまかし、ごまかしで投げるしかなくなった。「全然、スピードが出んがな。おかしいわ、おかしいわと思いながら、その年は投げました。ホント、スピードが出なかった。真っ直ぐを投げてもバッターが『スライダー?』って聞くくらい。球速は130キロぐらいしか出ていなかったと思いますよ」。
それでも年間通して、先発ローテーションを守り切って8勝を挙げ、前年とほぼ同じ199回を投げたが「それはもう、本当にトレーナーの方が一生懸命してくれたからなんですよ」と中込氏は話す。周囲のバックアップがあってこその“完走”だったが、そのままでいいわけがなく「検査してみようとなった」。シーズン終了後、プロ2年目(1990年)に右肘軟骨除去手術を受けたロサンゼルスのジョーブ博士のもとに向かった。
「ジョーブさんのところに行ったら、靱帯がちょっと伸びている、トミージョンをやった方がいいと言われたので、すぐ、してくださいと言いました」。長期リハビリが待っていることは、もちろん覚悟の上だ。手術を即決するほど、現状の右肘に限界を感じていたのだろう。そして、この時も中込氏は前向きだった。「2年目に手術で入院した時、何を食べたいかと聞かれて寿司といったら寿司が出てきたけど、その時もまた寿司って言って出てきましたよ」と笑う。
さらにはこんなことも。「退院してからもロスで、リトルトーキョー(のホテル)に泊まって、通いでしばらくリハビリしたんですけど、後の時間は自由になるのでジョーブさんに『ディズニーランドに行っていいですか』と聞いたら『いいよ』って言われて『えっ、いいんですか』と言って行った覚えがある。あの時は妻もロスについてきてくれていたんでね」。リハビリ生活は精神的にも大変だったはずだが、それを全く感じさせないスタートだったようだ。
オマリー“指令”で背番号1を継承も…完全復活は先送りに
プロ6年目の1994年は当然、1軍出場はなし。背番号が99から1に変わったプロ7年目の1995年も同じ状態が続いた。「リハビリは最初、6か月と言われていたんですけど、何か時間がかかりましたね。靱帯が馴染むのが遅かったイメージがある。もうずーっとリハビリでした。毎日同じこと。筋力をつける、肘を伸ばす……。すごく大事に、ゆっくり、ゆっくりやりました。95年には右肘のクリーニング手術も。軟骨をまた、それもきれいにしちゃおうってね」。
そんな最中に背番号が1に変わったのは、1994年まで1番をつけていたトーマス・オマリー内野手(1995年からヤクルトで2シーズンプレー)からの“指示”だったという。「オマリーがね、『お前が俺の後をつけろ、1番をつけろ』って言うので『わかった。つけるわ』と言って、つけた。なんかつけさせたかったみたい。オマリーとはまぁまぁ仲がよくてね、彼のスパイクとかも磨かされていた。その時はエナメルのスパイクの白だったけど、いつもすごく汚かったんですよ」。
1番を継承した1995年のシーズン途中に阪神は中村勝広監督が休養し、藤田平監督代行の体制に変わったが、中込氏の状態は、まだまだいい方向には変わらなかった。1軍復帰の1996年は8登板で0勝4敗、防御率6.61。もう一度躍動しはじめるのは、その次の年。1985年に阪神を日本一に導いた吉田義男氏が監督に復帰する1997年シーズンまでずれ込んだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)