防御率6点台で監督から“名指し”「土俵際や」 1267日ぶり勝利も…貰えなかったボール

復活のバネになった監督の“剣が峰”発言
元阪神投手の中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火焼肉 伸」店主)は1997年4月6日の広島戦(広島)で実に1267日ぶりの白星を挙げた。5回1/3、1失点投球でつかんだ勝利だった。右肘を痛めて1993年オフにトミー・ジョン手術(側副靱帯再建術)を受け、長いリハビリ生活を経ての感慨深い復活劇だったが、これに関してはこの年から阪神監督に復帰した吉田義男氏のことも忘れられないという。「僕と(外野手の)八木(裕)さんが名指しで……」などと回顧した。
トミー・ジョン手術後の1994年はリハビリ生活、1995年はさらに右肘のクリーニング手術も受け、2年間は完全に1軍から遠ざかった。プロ8年目となる1996年は6月に1軍昇格を果たしたが「全然、自分のイメージ通りに投げられなかった」。結果は8登板で0勝4敗、防御率6.61。7試合に先発したが、勝利投手にはなれなかった。8月4日の横浜戦(西京極)に先発し、2回3失点で4敗目を喫して、その年は終わった。
それが吉田監督体制になった1997年によみがえった。「あの年ね、吉田さんに僕と八木さんは名指しされて『剣が峰だ』って言われたんです。『もう最後の土俵際や』ってね」。もう後がない。指揮官からのゲキに奮い立った。前年(1996年)に故障もあって1軍出場なしに終わっていた八木は、吉田監督命名の「代打の神様」として復調していき、中込氏は開幕2戦目の広島戦(4月6日、広島)に先発起用され、気迫の投球で復活勝利を手にした。
1993年10月17日のヤクルト戦(神宮)以来の白星だ。「(ウイニング)ボールは僕がもらえると思っていたら、吉田さんに渡ったんですよ。これが監督復帰の1勝目だからって。いやいや僕だって、千何日ぶりのボールですよって思ったけど、コーチとかも『監督、どうぞ、どうぞ』と言ってね」。4月5日の開幕広島戦(広島)に阪神は1-3で敗れており、吉田監督にとっても、この開幕2戦目勝利は記念星。どうしようもなかった。

引退後に知って嬉しかった記念球の行方
その上で中込氏はこう付け加えた。「コロナの前くらいかなぁ、吉田さんに『“剣が峰”の八木とお前、ゴルフに行こうや』って言われて、行ったことがあったんですけど、その時に『お前があの(1997年の開幕2戦目の)試合に勝ってくれて、嬉しかったんだぁ、あのボール、今でもちゃんとあるよ』って言ってくれたんですよ。ああ、やっぱり、あのボールは吉田さんのところに行ってよかったなぁって思いました。そういう思い出もありますよ」。
中込氏にとってはトーマス・オマリー内野手から受け継ぎ、1995年シーズンからつけていた背番号1での初勝利でもあったが「吉田さんに『1番はちょっと細いから、お前はデカいし(ユニホームの背番号)1を太めにした方がいい』って言われて、ちょっと太めにしていたんですよ」とも明かした。1番は吉田氏が第1期阪神監督時代(1975年~1977年)に背負った数字でもある。いろんな縁も重なっていたようだ。
1997年、プロ9年目の中込氏は23登板、7勝7敗、防御率3.09。途中2軍再調整の時期はあったものの、夏場以降はかつてのような安定感ある投球も増えた。そして節目のプロ10年目の1998年は、5年ぶりに規定投球回をクリアして8勝(13敗)をマークした。「よく投げさせてもらいましたよ」。しかしながら、チームは最下位に沈み、吉田監督は辞任した。
この年のオフには、同じ山梨出身で同い年で、それこそ小学校時代からしのぎを削った久慈照嘉内野手が阪神から中日に移籍した。「久慈のショートもうまかったなぁ。あ、久慈じゃなくて“ちっちゃいの”。まさか阪神で一緒になるとはねぇ。絆? もちろん、もちろん。“ちっちゃいの”と“おおきいの”でね。本当に、あいつの守備には助けられましたよ」としみじみと話した。
時の流れとともに状況は変化していったが、故障に苦しんできた中込氏は、ようやく、投球に手応えをつかみ、また戦えるメドがついたはずだった。だが、当時の阪神は下位に低迷する暗黒時代でもある。1999年シーズン、阪神監督に野村克也氏が就任。ここからまた、いろんなことが起きる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)