理不尽すぎた上級生の“シゴキ” 高校同期95人が退部…深夜12時でも帰宅できぬ日々

進学した帝京商工では理不尽なしごきで退部者続出
元近鉄4番打者の栗橋茂氏(藤井寺市・スナック「しゃむすん」経営)は1967年、帝京商工(現・帝京大高)に進学した。「一番大変だった」というのは高校1年時。ヤクルト配達アルバイト→学校授業→野球部練習→2年生からのしごき→3年生のグラブ、スパイク磨き→帰宅。そんなスケジュールをこなしていたという。当時は当たり前のようにあった先輩からの“説教”によって退部者も続出したなか、耐え抜いたのは「もう意地だった。それしかなかった」と話した。
栗橋氏は高校時代を「1年の時は、ボコボコはあるわ、配達(アルバイト)はあるわで、あんなことやっているヤツって、そうそういなかったんじゃないかなぁ」と苦笑しながら振り返った。「昔の帝京商工はホントに(柄が)悪かった。チンピラ学校。東京で3本の指に入っていたと思う。でも野球は強かったんだよ。野球部には俺らの時も100人近く入ったからね。それが卒業するときには5人。1人はマネジャーだから、プレーヤーは4人しか残らなかった」。
その多くが1年生時にやめていったそうだ。「100人のうち1週間で半分くらい、いなくなったし、夏までには、もう1/3ぐらいになった。2年生になる前にもまたやめた。1年の時なんか、なかなか帰れなかったしね……」。通常の練習が終わってからが長かった。「3年生が帰ってから、2年生からのしごきがあるわけ。ケツバットとか、どうのこうのね。それから3年生の(ための)仕事をしなきゃいけない。グラブだ、スパイクだ、5つや10ぐらいはある。磨くのがね」。
当時は東京・板橋区にあった帝京商工だが、同じ板橋区に住む栗橋氏でも、家に到着するのは遅かった。「(夜の)12時とかになって、親が表で心配して待っていたもんね。最終のバスがなくなって、電車で遠回りして帰ったこともあった」。それに加えて朝5時には起きてヤクルト配達のアルバイトも続けた。肉体的にも精神的にもハードな日々だったのは間違いないが、それを耐え抜いたのは「まぁ、意地だよね。やっぱり意地。それがあったから」と“自己分析”した。
「野球が好きというだけでは、あんなもん続かないよ。好きだけでやってんだったら、みんな野球嫌いになってやめていくよ。まぁ、根性はできるよね。殴られ強くなるもんね。殴られるのは怖くないんだよ。それより正座の方がつらい。あとケツバットも痛かったなぁ。あれ、下手くそがやると腰に入ったり、太腿に入ったりするからね。太腿だったら、もう風呂に行ったらミミズ腫れで、立てないからね、力が抜けちゃって……」
投手としてのデビューは4四死球と散々な内容
それは2年生との“闘い”でもあった。「3年生はあまりやらないからね。2年生が1年生の教育係。1年が何か下手うったら、2年生が3年生に“お前らの教育が悪い”と怒られる。挨拶は90度になってないと駄目とかね」。当時は他の部も激しかったという。「野球部と応援団の部室が一緒だったんだけど、応援団は昼にしごきをやっていた。俺らが掃除しているときにはもう……。やっぱり体を壊すヤツもいたよね」。
今では考えられないことだが、当時はそういうことが普通にあった。もちろん、それがいいことでは全くないが、栗橋氏は何とか「意地」で耐え抜いた。帝京商工が東京大会決勝で堀越に敗れた1967年の1年夏はスタンド応援部隊だったが、1年秋からは外野手兼投手としてレギュラーメンバー入りを果たした。投手としても期待されていた。「球は速かったし、左っていうのもあったからね。でもコントロールはない。最初はそんな感じだったね」。
投手としてのデビュー戦はよく覚えているという。「帝京高との練習試合だったけど、初球が1番バッターのくるぶしかなんかに当てるデッドボール。それからフォアボール、フォアボールで、4番バッターには頭にいって、ヘルメットに当てるデッドボールで交代。もうストライクはどうやって取るのかと思ったね」。1死も取れず、4四死球で降板と散々なスタートだったが、栗橋氏はそれもバネにした。ここでも、へこたれなかった。
さらに練習を重ねて、ピッチングもバッティングも日を追うごとにレベルアップ。投打の“二刀流”で活躍する選手に成長していく。「野球は好きじゃなかったけどね。だからまぁ、意地だよね」。“百戦錬磨”の栗橋氏はサラリと言い切った。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)