“野球をさせてくれない”野球部のリアル 元プロが直面した現実…1か月で「もうやめた」

西武など3球団で活躍した左腕・杉本氏が振り返る“波乱”の中学時代
元西武、中日、ダイエーでプレーした杉本正氏(野球評論家)は、1972年4月、静岡・小山町立小山中学の軟式野球部に入部した。町立成美小6年時の地域ソフトボール大会で6本塁打と大活躍。中学野球部から「来い」とスカウトされていた。だが、早々に嫌気がさし“一人練習”の日々に突入。その後、チームメートからの声かけで“復帰”したものの、波乱の幕開けとなった。
ソフトボールではあるが、打者としての“実績”を引っ提げて、中学で野球部入りした杉本氏だが、待ち受けていたのは耐えられない現実だった。「練習がというよりも、1年生は練習をさせてもらえなかった。田舎にある小山中学は、すぐ裏に小高い山があるんです。そこでのランニングが1年生の基本メニュー。アップダウンを入れて1周400メートルはあるのかな。そこを必ず10周するメニューがあるわけです。まぁ、それは別によかったんですけどね」。
そう言って杉本氏は話を続けた。「それが終わって、先輩たちが打っている間は外野に並んで、かかとを上げて声出し。球拾いをすることぐらいしかできないんですよ。何でこんなことをしなきゃいけないんだろうって当時は思いました。野球ができない。野球をさせてもらえないので、もうやめたって思った。練習に出るのが嫌になって、ひと月ほどで、野球部に行かなくなったんです」。
退部届は出さず、ただ練習に行かなかったという。「家に帰るには(通常)グラウンドの横を通るんですけど、通らなくて帰るために、わざわざ遠回りして、見えないようにとか、そんなこともしていました」。野球そのものが嫌になったわけではなく1人で練習したそうだ。「近くに木材屋さんの大きな駐車場があって、そこで壁当てしたり、自分で軟式ボールに火鉢の火で穴を開けて紐を通して縛って吊して、そのボールを動かして打つ練習をしていました」。
4月に入部し、5月には“一人練習”に突入した。それが変化したのは「1年の2学期から」という。「1年生の夏休みが終わるくらいまでは一人でそんなことをしていたんですけど、2学期に入ったら野球部のクラスメートに『お前、(練習に)出てこないと(野球部を)クビになるよ』と言われて、クビになるのはちょっと恥ずかしいなと思い『じゃあ出るよ』って言いました。3年生もいなくなって、2年生と自分たちなんで、入った時よりは優遇されると思ったんでね」。
復帰後も上級生の“壁”は厚く、試合には出られなかったそうだが野球部で練習を続けた。「その時も、まだ手伝いみたいなものでしたけどね。試合に出たのは2年生になってから。一塁手で初めて試合に出ました。ファーストミットを親に買ってもらってね。でも一塁手で出たのは、その年の秋の数試合と、翌年(中学3年)の春先の県大会の予選。1回戦で負けましたけどね」と振り返った。
そこから投手に転向した。「春の予選でピッチャーがボコボコに打たれて負けて、監督が『誰かやるヤツいないか』と言って……。それまで僕は、仲のいい子に『お前、キャッチャーやれよ。俺が投げるから』と言って、遊びで打者と対戦したりしていたんですよ。で、監督が『もうお前たちがそのままやれ』と言い出して、それでピッチャーになった。それがきっかけなんです」。急造投手としての“出番”だった。
19年ぶりの快挙に貢献「ちょっと騒がれました」
「真っ直ぐとカーブだけ。まぁ、カーブはなぜか当時からよかったんですよ。練習試合に2試合くらい投げただけで中体連の地区予選が始まったんですが、決勝まで行ったんです。決勝は満塁で走者一掃のタイムリーを打たれて負けて、準優勝でした。ただ、(上位)2校が次の静岡の東部地区大会に出られて、それが学校では19年ぶりのことだったみたいで、ちょっと騒がれました」。杉本氏は投手として活躍しただけでなく、打者としても非凡なものを見せており、期待されたようだ。
しかし「東部大会は1回戦負けでした」と苦笑する。「僕らが住む小山町は神奈川との県境に近いんですけど、あの足柄山の金太郎さんの出生地と言われているところで、標高が高いんですよ。東部大会は沼津であって、そこは気温が5度くらい違ったんです。僕はその時に初めて沼津に行ったんですが、もう暑くて、暑くて。こんなに暑いのかって思うくらいでねぇ……」。慣れぬ環境もあって、普段の力を出せずに終わったそうだ。
それでも将来が楽しみな選手として複数の高校から誘いがあったという。中学1年当初、野球部が嫌になって“一人練習”をしていた頃からすれば、思いがけないほどの成長だった。「もともと高校に行く気もなかったんです。中学を卒業したら調理師を目指すつもりだった。そういうふうに父からも言われていましたし……」。それが特待生で私立御殿場西に進学することになった。まさに中学3年での“結果”が、杉本氏の野球人生を継続させた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)