体操着で大会出場…“大人の事情”で「負けでいいです」 左利きで三塁手、西武左腕の原点

西武、中日、ダイエーで活躍した杉本正氏【写真:山口真司】
西武、中日、ダイエーで活躍した杉本正氏【写真:山口真司】

西武などでプレーした杉本氏が振り返る野球人生の始まり

 西武、中日、ダイエーの3球団で活躍した左腕が杉本正氏(野球評論家)だ。1980年ドラフト3位で大昭和製紙から西武に入団し、デビュー戦で完封勝利を飾るなど1年目から実力を発揮。その後、移籍した中日では1987年にキャリアハイの13勝をマークした。引退後も西武・松坂大輔投手を指導したことなどでも知られる理論派だが、“野球人生”のスタートは左利きの三塁手だったという。

 静岡県駿東郡小山町出身の杉本氏は、小山町立成美小に通った。1959年5月3日生まれ。「小学校の低学年の頃は、近所の友達というか、同い年ぐらいの人たちが集まって、ゴムまりと竹を切ってきて、田んぼで三角ベースみたいなもので遊んでいました。野球をやるきっかけは、近所のお兄ちゃんたちと遊ぶくらいで、僕は左利きなんですけど、左用のグラブがないので右利き用のグラブをつけて、外して投げたりしていましたね」。

 そんな中、1968年から始まったアニメ「巨人の星」の影響で野球熱が高まった。「(主人公の)星飛雄馬と生活環境がちょっと似ているところもあった。決して裕福ではなかったしね。長屋に兄弟6人と両親とおばあちゃんの9人家族でした。同じ左利きの星飛雄馬に憧れたというか……」。漫画に登場する大リーグ養成ギプスまでは真似できなかったが「河原に行って石を投げたり、縄で足に石を縛りつけて動いたりしたような記憶はあります」と笑った。

 小学校時代に少年野球チームはなく、活躍の場はソフトボール。「夏に小山町内の地域対抗のソフトボール大会があったんです。当時は子どもも多かったし、20チームくらい。小学6年の時しか覚えていませんが、決勝までいきました。左利きなのに、なぜかサードをやっていたんですよね。その時は打つ方がよくて、大会で6本くらいホームランを打ったんですよ」。

 投手ではなく、強打の左利き三塁手として目立つ存在だったが、その大会では決勝に勝利しながら“反則負け”に終わったという。「地区のルールとして6年生が何人、5年生が何人、4年生が何人っていうのがあったんですけど、4年生を出さなきゃいけないところで、なぜか5年生を出して、試合が終わってから相手から違反だとクレームをつけられたんです」。優勝チームはさらに上の大会に進出することになっていたが、その道も絶たれてしまった。

野球部から誘い…大きく狂った“中学計画”

 杉本氏は苦笑しながら、こうも振り返る。「あの時、うちのチームはユニホームを揃えていなくて、体操着みたいな服でやっていたんです。(決勝の)相手は立派なユニホームを着ていましたよ。上の大会にいけば、うちもユニホームを揃えなければいけなかった。そしたら費用もかかるじゃないですか。それが分かっているから、地域の区長さんはクレームをつけられても『負けでいいです。ウチは枠を辞退します、どうぞ、どうぞ』ってなったんですよ」。

“大人の事情”も絡んだことで印象に残ったようだが、ソフトボール大会の活躍で、杉本氏には地元の町立小山中学の軟式野球部から声がかかった。「中学生たちが見に来ていて、スカウティングするわけです。野球部に入れってね」。しかしながら、これにより“中学計画”が大きく狂ってしまったそうだ。

「自分の中では野球をする前に、バック転ができるように体操部に入ろうとか、足を速くするために陸上部に入ろうとか考えていた。野球は中学3年になってから。いきなりしなくてもいいやというビジョンみたいなものがあったんです。まぁ、巨人の星の影響でしょうね。(登場人物の)花形満のバック転とか、そういうのにも憧れていたんでね。でも中学の先輩に『来い』って言われて、最初から野球部に入ることになりました」

 小学6年夏のソフトボール大会が終わってからは、中学野球部に備えて軟式野球の練習も行った。「小山町役場に職員さんの野球部があって、仕事終わりに練習をしていたので、そこで大人に交じって練習というか、手伝いみたいなことをやっていましたね」。この時はあくまで強打の野手として“評価”されてのこと。「まぁ、そこまではかっこよかったんですけどね。中学で野球部に入部してからは大変でした……」。この時は投手に転向するとは思ってもいなかったそうだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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