異業種志望、高校に行く気もナシ 突如変わった“運命”…「家出して辞めた」同期のライバル

NPB3球団でプレーした杉本氏が結んだ父親との約束
進学の条件は「問題を起こしたら高校をやめること」だった。西武、中日、ダイエーでプレーし、NPB通算81勝をマークした左腕・杉本正氏(野球評論家)は、1975年に私立御殿場西高に入学した。当初は調理師の道に進む予定だったが、中学時代の野球実績で複数の高校野球部から声がかかり「特待生なら高校に行かせてほしい」と父親に懇願し方向転換した。投手よりも打者として評価されてのことだったそうだが、“逸材同級生”の家出→退部によって野球人生の“流れ”が変わったという。
中学卒業後は調理師の道へ。杉本氏はその方向で真剣に考えていたという。「うちは6人兄弟であまり裕福ではなかった。父親はプロのハンターだったんです。11月からの狩猟していい期間は、ほとんど山の中。僕は行ったことがなかったけど、神奈川の奥に温泉場があって、そこの旅館というかホテルに専属で勤めて、東京から来るハンターのガイドみたいなこともやっていたそうです。それで、子どもの頃からホテルとかの調理師や料理人になれと父に言われていたんです」。
杉本氏は、そうなるものだと思って中学生活を送っていた。「手に職を持たないといけないっていう教育を受けていましたしね。中学卒業後は調理学校とか、そういうところに行って、勉強して資格をとるつもりでいたんです。僕が中学の頃の父は家に戻って竹材業をやっていたんですけど、冬になったら猟を仲間と楽しみ、夏は鮎釣りに行ったりしていた。それには僕もよくついていきました。魚を釣って料理とかもね。そういうのも嫌いじゃなかったんです」。その道を覆したのが野球だった。
「中学3年の時に(エース兼主軸打者として静岡の東部地区大会に出場するなど)野球でちょっと目立ったので、御殿場西と日大三島、富士宮北の3校から誘われたんです。それで進路の話になったとき、父に『特待生だったら高校まで行かせてくれない? 高校を卒業してから(調理師の)その道に行くから、あと3年間、待ってくれないかな』という話をしたんですよ。あまり賛成はされなかったけど『分かった。家から通えるところなら行っていい』となったんです」
その結果、御殿場西への進学を決めた。「家を出て学校に着くまでに1時間くらいかかるけど、電車に乗っている時間は15分から20分だからいいかなって思ってね。ただ、自分たちが9期生で、できて間もない私立の高校で、悪く言えば、どこにも行けないような生徒たちが集まってくるような学校だったんです。今は偏差値も上がって、立派な進学校なんですけどね。当時は、学校の名前を売るのに手っ取り早いのが野球じゃないですか。だから特待生で生徒を集めていたというのはありましたね」。
入部からわずか1か月で注目左腕が退部「お前、ピッチャーをそのままやれ」
そんな“環境”もあって進学する際に父から約束をさせられたそうだ。「特待生で入っても『何か問題を起こしたら、すぐ学校を辞めろ』ってね。例えばタバコを吸うとか、喧嘩するとか、そういうことで野球部とか学校に迷惑をかけるようなことをしたら、すぐに辞めろと……。そういう条件で行かせてもらったわけです」。
中学3年の時は投手としても力を発揮した杉本氏だが「高校の監督は僕を野手として使いたいというのがあったみたいです」という。打者としても非凡なものを見せていたからだが、その“流れ”も入学早々に変わったそうだ。「1年生は20人くらい入ったんですけど、その中に上背があって、球も速い左ピッチャーがいたんですよ。僕が見ても、自分より上だと思うくらい能力がある子でした。そしたら、ひと月もしないうちにいなくなっちゃったんですよ。家出して辞めると言って……」。
野手として期待されながらも、杉本氏は投手の練習もしていたそうで「その子がいなくなったんで必然的に『お前、ピッチャーをそのままやれ』という形になったんです」と明かす。後にプロで活躍する左腕だが、同級生の逸材左腕がそのまま残っていたら、どうなっていたか分からない。そもそも中学3年の時に野球で活躍していなければ、調理師の道に進んでいたはずだったのだから……。そして、この高校3年間で、杉本氏は静岡県内屈指の左腕に成長していった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)