「ああ、終わった」最後の夏と決めた“野球” 調理師を模索も…16回無安打投球で黙らぬ周囲

西武で活躍した杉本正氏は御殿場西のエース兼3番として活躍
西武などで活躍した左腕・杉本正氏(野球評論家)は1977年の御殿場西高3年夏の静岡大会で抜群のピッチングを見せた。2回戦は7回コールド参考記録のノーヒット・ノーラン。3回戦は9回を投げきってのノーヒット・ノーラン。0-1で惜しくも敗れた4回戦も2安打しか許さなかった。大会前の進路相談では「高校で野球を辞めます」と担任の先生に伝えていたが、この3試合連続の快投で周囲が黙っていなかった。
杉本氏は当初、中学卒業後に父から勧められた調理師の道に進むつもりだった。それが小山町立小山中3年の時にエース兼主軸打者としてチームの静岡東部地区大会進出の原動力になったことで、複数の高校から誘われ「父には『(高校の)3年間待ってほしい』と言いました」。その結果、特待生として私立御殿場西高に進学。高校卒業後は、約束通り、料理人を目指す考えで野球を続けていた。
高校2年秋から御殿場西でもエース兼3番打者として活躍しはじめたが、最後の夏の大会前の時点でも「野球は高校まで」と決めていたという。「7月の上旬に進路のことについて面談があったんですけど、僕は『野球は辞めます。調理師になります』と言ったんです。そしたら、野球部のコーチでもある担任の先生に『お前は卒業後も野球を続けろ』って言われたんです。えーって思いましたけど、その時はそこまでの話で、何も進展することなく夏の大会に入ったんです」。
打ってはヒットを量産、投げてはカーブを武器に三振の山を築くなどチームの要に成長した杉本氏は、その集大成の夏の大会で結果を出した。特に凄かったのはピッチングだ。御殿場西は藤枝北との2回戦から登場したが、いきなり7回コールドの参考記録ながら、ノーヒット・ノーラン。17三振を奪う快投を見せたのだ。
県大会で無安打投球「ほとんど打たれなかった」
「その試合はおかしかったんですよ。僕がヒットを1本も打っていないのに、普段打たない人間がどんどん打ったんです。で、7回表を終わったところで6-0。その時点で17奪三振。当時の県の記録は19奪三振だったらしいんで、コールドにならなかったら(記録更新の)可能性があったんです。試合中に僕はそんなこと全く知らなかったんですけど、監督は関係者に教えてもらって知っていたそうです」
事情を知る人たちはコールドゲームを避けたいと願っていたが、御殿場西の飯尾監督は「そんなことよりも勝利が優先だ」と言っていたという。「でも監督は、そう言いながら(7回裏の攻撃で)盗塁のサインを出したり、エンドランのサインを出したりしたんですよ。いつものウチの打線のことを思えば、失敗するだろうとか、アウトになるだろうとか、思ってくれていたんじゃないですかねぇ。それがその時はやることなすこと全部、成功したんです。で、結果的に点が入って7-0のコールドになったんです」
状況を後で聞いた杉本氏は「正直、だったら打つなよ、みたいに思いましたけどね。ホントに気付いていなかったんで。ヒットを打たれていないのはわかっていましたけど、三振の数とかは数えていなかったんでねぇ。案外、監督が何もサインを出さなかったら、点が入らなかったかもしれなかったですね」と笑みを浮かべながら話した。それでも、その大会の快投はさらに続いた。2-0で勝利した袋井高との3回戦では堂々たるノーノーを達成だ。
杉本氏の武器であるタテの落差のあるカーブが冴えまくった。相手打線は凡打の山を築くだけだった。「あれは確か、先頭打者にフォアボールを出して、それ以降はひとりも出さずに、27個のアウトを取ったと思う。で、ウチの2点は僕が三塁打を打って、スクイズかなんかで取った1点と、もう1点は一塁にランナーがいて、相手の牽制悪送球でそのまま(一塁から)ホームイン。そんな試合でしたね」。
これで2試合16イニング連続ノーヒット投球となり、杉本氏は一気に注目を集めた。「ちょっとだけ騒がれましたね。真っ直ぐとカーブしか投げていないんですけど、あの時はカーブがよかったと思います。昔でいうドロップなんですけど、ほとんど打たれなかったですもんね」。残念ながら4回戦は0-1で静岡学園に敗れたものの、その試合も被安打はわずか2。またまた素晴らしい投球で周囲をうならせた。
夏敗退で目指そうとした調理師への道
「4回に2アウトランナーなしからセンター前に打たれたんです」。それがその夏に初めて許したヒットだった。「で、次のバッターに3ボール2ストライク。自動的にランエンドヒットになって、ファースト後方に上がったのがヒットになって、ファーストランナーにそのまま一気にホームインされた。それで1点取られました。あとは、フォアボールは出したかもしれないけど、そこからまた9回までノーヒットでした」。
その試合の杉本氏は打者としても気を吐いた。「チームは3安打でしたが、そのうちの2安打は僕が打ちました。中盤にノーアウトからレフトオーバーのツーベースを打って、なぜかバントじゃなくて、次の4番バッターのファースト後方フライで僕がタッチアップでサードに行って1アウト三塁。で、初球にスクイズのサインが出たんですけどね……」。しかし、それでも点を取ることはできなかった。
「僕らが一塁側で、サードランナーの僕はバッターもベンチも両方見えるんですけど、どう見てもバッターがスクイズのサインを見ていないように思えたんです。それで監督にもう1回、サインを出してくれって、出したら監督がサインを取り消したんです。そしたらバッターが初球を打ってしまってショートゴロ。結局、僕はホームにかえれなかったんです」。どうしても試合の流れをつかめなかった。
「8回に2死二塁で、僕が敬遠されて、次の4番バッターが左中間に打ったんですよ。抜けたと思ったんですけど、ファインプレーされて……。あれも向こうの監督は外野に“前に来い”って指示していたのを相手のレフトは、それを見ていなかったみたいで……」。結局零封負けで涙をのんだ。負けた瞬間、杉本氏は「ああ、終わった。もうこれで野球は終わったと思いました」という。野球を辞めて調理師の道へ進もうとこの段階でも考えていたそうだ。
しかしながら、ここまでの快投を3試合連続で繰り広げた左腕に対して周囲が黙っているわけがなかった。大学、社会人、プロからも声がかかった。その結果、中学卒業時にも“延期”した道が、高校でもまた……。杉本氏は今回も父の了承を得た上で、社会人野球・大昭和製紙に進む。さらに継続された野球人生。それもまた実力でつかんだものだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)