監督から「お前を使わない!」 開幕前の2軍落ちで“通達”…肘痛で幻となった阪神トレード

西武など3球団で活躍した杉本正氏【写真:山口真司】
西武など3球団で活躍した杉本正氏【写真:山口真司】

1990年シーズン途中に移籍したダイエーでは思うような活躍ができなかった

 西武、中日、ダイエーでプレーした杉本正氏(野球評論家)はプロ13年目の1993年限りで現役生活にピリオドを打った。ラストシーズンはダイエーで1軍登板なしだった。左肘痛のため、オープン戦中にファーム落ちし、夏には自ら引退を申し入れた。実質、区切りをつけたのは当時6月30日のトレード期限が終了した頃だったという。開幕前に阪神への移籍話が持ち上がり、肘が万全ならば“虎の杉本”誕生の可能性もあったが、それも幻に終わった。

 プロ10年目の1990年シーズン途中の6月に中日からダイエーにトレード移籍した杉本氏だが、思うような結果は出せなかった。その年は3勝7敗。左肘の状態が芳しくなく、翌1991年も3勝8敗と精彩を欠き、8月に戦列を離れ、9月には手術に踏み切った。「(ダイエー監督の)田淵(幸一)さんが、(広島監督の)山本浩二さんに声かけをしてくれて、紹介してもらった広島の病院で診てもらって『もうオペしなきゃ駄目です』という話になったんです」。

 オフには背番号が「28」から「31」に変わった。「(1991年11月に)新浦(壽夫)さんが(大洋から)トレードで来て(それまでつけていた)28にするということでね。当時(のダイエーでは)28は“怪我番号”とか言われていて、僕も肘を手術したし、“どうぞ、どうぞ、僕は31をつけます”って感じでね」。そんななか、リハビリに励み「(1992年の)2月のキャンプには普通に投げられるようになった」という。

 そのままオープン戦もクリアしてシーズンに突入。開幕3戦目の4月8日のロッテ戦(千葉)に先発して3失点完投で白星発進を決めた。そこから中5日で先発した4月14日の日本ハム戦(北九州)では無四球完封で2勝目もマークした。しかし、この後が続かなかった。また肘の問題も浮上した。「一回投げたら、突っ張った感じになって、しばらく投げられないぐらいの状態になったんです」。

 勝ち星が遠のき、3回0/3、3失点で4敗目を喫した5月30日のオリックス戦(平和台)を最後に先発ローテーションからも外された。以降はリリーフでの登板となったが、回復力が落ちているのだからなかなか厳しい役回りだった。7月5日の日本ハム戦(東京ドーム)に5回途中から3番手で登板し、2回1/3、無失点で3勝目をつかんだだけで、そのシーズンは3勝5敗に終わった。ダイエーは首位・西武から24ゲーム差の4位。お世話になった田淵監督は解任された。

根本監督から“通告”「俺はお前を使わない、阪神へ行け!」

 ダイエー新監督には、西武管理部長だった根本陸夫氏が就任した。杉本氏にとっては1980年の西武ドラフト3位でプロ入りした時の西武監督であり、恩師でもある。当然、プロ13年目となる1993年は初心にかえって、もう一度やり直そうと意気込んだ。だが、またしても左肘痛が行く手を遮った。「オープン戦の時に、肘が痛くなって、ファームに行くことになったんです」。そこから浮上できなかった。

「開幕前に根本さんが2軍の練習を見に来て、言われたんですよ。『俺はもうお前を使わないから、トレードに行け! 阪神へ行け!』って。僕が『肘が痛いんですけど』と言ったら『治ったら行け!』と……」。肘の問題で、ひとまず移籍話は保留となったが「僕自身の気持ちは、トレードの話が出た瞬間に、もう前向きじゃなくなった。この状態でヨソまで行ってやりたいとは思えなかった」という。

「僕は西武、中日、ダイエーと来て、公式戦で西武と中日に勝っていなかった。もし、ダイエーで西武に勝っていたら(中日に勝って12球団勝利の)チャンスがあるので、阪神に行っていた可能性はありました。でも、西武に勝っていなかったらどっち道、もう無理なので……。僕は西武、中日で72勝してダイエーで9勝20敗。仮に数字が逆で20勝9敗だったら100勝に近いんで、そこまでやりたいと考えたでしょうけど、あと19も勝てるわけないだろうって思っていましたから」

 それでも肘の状態がよくなれば、根本監督によって阪神行きの話は再燃しただろうが、結局、当時のトレード期限の6月30日までに回復のメドは立たず、その話も消滅。杉本氏は「その期限が過ぎた時に、もう引退しようと思った」と話す。そして「(ダイエー)2軍監督の有本(義明)さんのところに行って『僕は今年で引退します。辞めます』と伝えました」と自ら申し入れたという。

「そしたら有本さんに「じゃあ辞める覚悟があるなら、投げて辞めろ」と言われて、それから2軍で3試合に投げました。最後の3試合目は『好きなところで登板させてやる』と言っていただき『甲子園で投げさせてください』とお願いして、先発で5回を無失点に抑えました」。その時点で、できることを、すべてやり尽くして、ケジメもつけた。

“引退試合”の紅白戦固辞も「いいから黙ってやれ!」

「その後、有本さんが根本さんに『(シーズン終盤に)杉本を1軍で投げさせてやってほしい』と頼んでくれたんです。だけど根本さんが「駄目だ」と。その試合が日本ハム戦だったのかな。(西武と)優勝を争っていた相手に申し訳ないし、失礼だからって却下されたんです」。杉本氏は根本監督の考えを理解し、そこまで動いてくれた有本2軍監督に感謝した。「有本さんには『そこまでしてもらわなくても大丈夫です』と言いました」。

 すると有本2軍監督は2軍で“現役ラスト舞台”を作ってくれた。「もう2軍の試合は(その年の全日程が)終わっていたので、僕の引退試合みたいな形で紅白戦を組んでくれたんです。雁の巣球場でね。僕は『それも別にいいです』と言ったら、有本さんにえらい怒られて『いいから、黙ってやれ!』と言われてね。最後、投げて、有本さんが花束を用意してくれて、みんなに胴上げしてもらって、それで僕は終わったんです」。

 通算成績は298登板、18完封を含む48完投で81勝90敗2セーブ、防御率3.87。3球団でプレーした13年間の現役生活だった。「試合数はもうちょっと投げたかったというのは正直あります。すべて中途半端な数字なんで(笑)。まぁ81勝しかしていない中で、18個の完封ができたというのは大したもんだなと自分では思うところはありますけどね」と杉本氏は笑みを浮かべながら振り返った。

「今の時代は150キロを出すピッチャーが主流。左ピッチャーとはいえ、軟投派っていうのはなかなか先発としてやっていくのは難しいところがある。僕は130キロ台でしたし、今だったら僕みたいなピッチャーは先発させてもらえてないかな」と“自己分析”したが、完投、完封はそう簡単にできるものではないし、巧みな投球術で野球ファンを魅了したのは紛れもない事実。左肘痛に悩まされなければ、もっと投げられたことだろう。

「僕はコーチになってから、辞めていく選手や辞める前の選手によく言うんですよ。『自分から辞めるってことは一切言うな。球団から言われるまで残っとけ』って。僕は変なプライドを持って自分から辞めるって言ったけど、黙っていれば、まだ1、2年はやれたかもしれない。そうなれば、やっぱり報酬が全然違ったわけですからね」とも杉本氏は付け加えたが、もしも、根本監督の勧め通りに阪神に行っていたらどうなっていただろうか。

「たぶん無理だったでしょうね」。杉本氏はそう言って笑い、こう続けた。「それよりも、根本さんで始まって、根本さんで終わったというのが自分の中ではすごく、ありますよ」。プロ1年目の1シーズンだけ西武・根本監督で、プロ13年目のラスト1シーズンだけがダイエー・根本監督だったプロ野球現役生活に別れを告げて新たな道へ。次は指導者としての野球人生が始まった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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