「やっぱり今日は行けなくなった」謝罪の連絡に感じた異変 幻の“49年会”…裏で起きていた切実な現実|私だけが知っている松井秀喜#5

メジャーでは最終年の2012年にレイズに在籍していた松井秀喜【写真:アフロ】メジャーでは最終年の2012年にレイズに在籍していた松井秀喜【写真:アフロ】

松井秀喜と同じ昭和49年生まれ、同世代として抱いた誇りと親近感

 Full-Count+の新連載「私だけが知っている松井秀喜」では、当時の担当記者たちが「未発表の記憶」を紐解いていく。今回の筆者は佐藤直子。松井と同い年で、同じ時代を生きてきた誇らしさと親近感。あの日、幻に終わった「49年会」の約束と、その裏で起きていた切実な現実を振り返る。(敬称略)

佐藤直子
著者:佐藤直子
さとう・なおこ
松井秀喜取材担当:2011〜2012年
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1974年、群馬県生まれ。横浜国立大学を卒業後、編集プロダクションを経て、2004年にフリーとなり渡米。シカゴを拠点にMLB、NFLなどスポーツ取材を始め、2006年から日刊スポーツ通信員に。2016年に帰国すると、同年6月からFull-Count編集部に所属。リック・フレアーらWWEスーパースターズの自伝を多数翻訳した他、元ロッテ監督・井口資仁氏の著書『井口ビジョン』(KADOKAWA)の制作に携わった。

 私は松井秀喜と同じ、昭和49年生まれ。日本人メジャー経験者では井口資仁、黒田博樹、小林雅英も同学年で、シカゴに住み、メジャー取材をしていた当時、4人のことを密かに誇らしく思っていた。“同い年”というだけで、勝手に近しさを覚えていたからだ。

 石川の星稜高にすごいバッターがいるらしい。そんな話を聞いたのは高校1年の時。携帯電話もインターネットもまだ一般的ではない時代に、群馬に住む女子高生までその存在を知っていたほど、松井の存在は大きかった。

 3年夏の甲子園、かの有名な5連続敬遠の日は今でも覚えている。朝からNHKで甲子園を見ながら勉強をし、午後1時過ぎの電車に乗って部活に行くのが夏休みのルーティン。この日は第3試合だった星稜vs.明徳義塾の観戦を途中で切り上げ、後ろ髪を引かれる思いで駅へ向かった。高校通算60号が出るかもしれないのに……。この時すでに2打席敬遠されていた。

 5打席連続敬遠を知ったのは、部活が終わった後のこと。「えーっ!」とひと声叫んだ後、帰りの電車で部活仲間とああでもないこうでもないと持論を戦わせた。立ち飲み屋のサラリーマンではない。女子高生が、だ。それほど大事件だったのだ。

米メディアからも人気があった松井…評価されていたユーモアセンス

 その松井に初めて挨拶をしたのは、確か2007年か2008年、ヤンキースがシカゴ遠征に来た時だった。当時スポーツ紙の通信員をしていた私は、休暇を取った松井番の記者に代わり、ホワイトソックスとの3連戦を取材。初日の練習前に名刺を持って自己紹介に行った。

「初めまして。同い年なんです」

 言うことは色々考えていたはずなのに、なぜか口走ってしまった「同い年」という言葉。ロッカー前で椅子に腰掛けていた松井は、こちらを向くと「お、そうなんだ。よろしくね」と気さくに笑った。

 あの5打席連続敬遠の松井が、東京ドームやヤンキースタジアムを湧かせる同世代のヒーローが、目の前にいる。でも、雲の上の存在感は一切なく、漂うのは友達の友達くらいの気楽さ。今考えると、それは松井の気遣いだったのかもしれないが、なんだか不思議な空間だった。

 定期的に取材するようになったのは2011年、アスレチックスに移籍したシーズンからだ。この年は4月に日米通算2500安打、7月に同500本塁打を達成するなど重要な節目を迎えたが、思うような結果を残せず。シーズン中は常に悩みの中にいる様子だった。松井のマイペースぶりは有名な話だが、試合後に恒例の囲み取材が始まるまでが長かった。何をしているのかと思えば、ロッカー前で本を読んでいることも。報道陣に応対する前に気持ちの整理をつけていたのだろう。

囲み取材に応じた際のアスレチックス在籍時の松井秀喜【写真:アフロ】囲み取材に応じた際のアスレチックス在籍時の松井秀喜【写真:アフロ】

 メジャーでは試合前後の決まった時間帯に、記者がクラブハウスの中に入って選手を個別取材できる機会がある。とは言え、選手は試合前のルーティンや個人練習に忙しかったり、記者と話す気分ではなかったり、クラブハウスにいないことも多い。そんな中、自分の調子にかかわらず、松井は記者に対応する時間を惜しまなかった一人。記者という仕事をリスペクトしてくれていた。

 交わした会話の内容はさまざまだ。チームの話、野球の技術論、読んでいる本の話、などなど。星稜高時代のエピソードを話す時は、心底楽しそうだった。その一方で、野球に関する本音を引き出そうとする質問には「どう思う?」と逆に見解を求められることもあり、取材者としての資質を試されているような気がすることも。この振れ幅の大きいやりとりが、なんだか楽しかった。

 松井は米メディアからも人気があった。取材を嫌がることはないし、誠実に質問に答えてくれる。だが、何よりも評価されていたのは、そのユーモアセンスだ。松井の所属当時にヤンキース番だった記者たちは、いまだに「ヒデキほど面白いヤツはいない。こんなことがあったんだ……」ととっておきのエピソードを披露してくれる。

「49年会しましょう」→「君たちと違って忙しいんだよ、俺は(笑)」

 松井の取材現場には、同い年の記者やカメラマンが数人いた。松井自身の気さくな性格も手伝って、いつしか「49年会しましょう」と呼びかけるのが挨拶代わりに。返事は決まって「君たちと違って忙しいんだよ、俺は(笑)」。松井が首を縦に振ることはなく、こちらも実現するとは思っていない。ただ、この同い年だからできる(不毛な)やりとりを、みんなが楽しんでいた。

 レイズとマイナー契約を結んだ2012年。5月29日にメジャーに昇格したが、往時の姿はもうなかった。7月に入ると左太もも裏を痛め、出場機会は激減。ようやく出場しても凡退し、本拠地でブーイングを浴びたこともある。米メディアも厳しい言葉を並べたが、誰よりも歯がゆい思いをし、誰よりも終わりが近いことを知っていたのは、松井本人だったと思う。

レイズ在籍時の松井秀喜【写真:アフロ】レイズ在籍時の松井秀喜【写真:アフロ】

 後半戦が始まったある日、試合前の雑談中に「49年会、いつします?」と何の気なしに言うと、「次のボルチモア遠征中だったら行けるかも。同い年は誰が来るかな?」と返ってきた。……え? 何て言った? 一瞬、思考回路がフリーズした。ここへ来て、まさかの49年会開催だ。

 結局、ボルチモア遠征に行く同い年の記者は私を含め2人だけだったが、「いいよ、やろうよ」と松井。開催は7月24日の試合終了後となった。楽しみではあったが、いつ戦力外になってもおかしくない松井の状況を考えると、手放しでは喜べない何かがあった。

 そして、当日。試合前に再確認すると「行くよ」と言う。松井の出場機会はなく試合が終了。一緒に食事へ行くM記者と待ち合わせていると、松井から「やっぱり今日は行けなくなった」と謝罪の連絡が届いた。「仕方ないよね」「食事に行く気分じゃないよな」と言葉を交わした次の瞬間、M記者と顔を見合わせた。

「あ、戦力外通告されたんだ……!」

 そこから裏付けを取るため関係者に連絡を取ったり、チームの宿泊ホテルまで行ってGMや監督ら首脳陣の姿を探したり、慌ただしい夜を過ごした。翌日、レイズが松井に戦力外通告したことを正式発表。予感的中だった。

 幻に終わった49年会は、松井の引退後、数年経ってから無事に開催された。生まれ育った場所は違えど、昭和49年に生まれ、同じ時間軸で育ってきた仲間。互いの思い出を共有したり、現役時代には聞けなかった質問をぶつけてみたり、笑いっぱなしの食事会だったことを覚えている。

 国民栄誉賞を受賞し、日本でも米国でも大きなリスペクトを集めるレジェンドだ。それでも“同い年”の近しさが消えることがないのは、松井秀喜が持つ人間性によるところが大きいのだと思う。野球選手としてはもちろん、それ以上に人間として魅力ある人物なのだ。

 最近はすっかり顔を合わせる機会が減ってしまったが、会った時に言うセリフは決まっている。

「49年会しませんか?」

(佐藤直子 / Naoko Sato)

私だけが知っている松井秀喜

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