取材できなかった“起死回生HR” 嬉しさと情けなさが交錯した奇妙な夜…翌日に救われた「いつもの姿」|私だけが知っている松井秀喜#4

苦しいシーズンを送った一方で、日米通算500号を記録したアスレチックス時代の松井秀喜【写真:アフロ】苦しいシーズンを送った一方で、日米通算500号を記録したアスレチックス時代の松井秀喜【写真:アフロ】

不振でも変わらぬ取材対応、おどけて報道陣を笑わせたことも

 Full-Count+の新連載「私だけが知っている松井秀喜」では、当時の担当記者たちが「未発表の記憶」を紐解いていく。前回#3に続き、筆者は清水友博。2011年から2012年にかけて、キャリアの終章に寄り添い続けた「下っ端番記者」だからこそ見えた松井秀喜の素顔——。今回は「胸騒ぎ的中のHR」。(敬称略)

清水友博
著者:清水 友博
しみず・ともひろ
松井秀喜取材担当:2011〜2012年
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2005年に報知新聞社に入社。記者として東京本社でサッカー担当を務めたあと、2006年末に東北支局に転勤となり、Jリーグ、プロ野球、アマチュアスポーツなどを幅広く取材。2010年末に東京本社に戻り、MLB担当としてアスレチックス、レイズ、ヤンキースなどを取材。2015年2月にCreative2へ入社し、Full-Count編集長やメディア事業本部長などを務めた。2024年1月からCreative2の代表取締役CEO。

 アスレチックスに移籍した松井は、開幕からなかなか調子が上がらなかった。

 打率も出塁率も低迷し、豪快な一発も出ない。スタメンから外されることが増え、打席に立つ機会すら与えられない試合も多くなっていった。5月3日の本拠地でのレンジャーズ戦でサヨナラ本塁打を放ってからは、約1か月も本塁打が出ない状態が続いた。

 番記者として、こういう時期は正直つらい。結果が出ていない選手のもとへ毎日足を運び、質問を重ねることになるからだ。「今日はちょっと勘弁してください」と報道陣を遠ざける選手も多い。結果が出ない苦しさの中で、毎日カメラと質問の矢面に立ち続けるのは、並大抵のことではない。

 ただ、松井は違った。どんな状況でも、変わらなかった。同じようなテンションで、同じような表情で、記者たちの前に立ち続けた。スタメンを外れた日も、凡退が続いた日も、特別に暗い顔をするわけでも、いらだちを滲ませるわけでもなく、淡々と取材に応じた。

 ある日のことだ。取材の中で、記者の一人が「フェンス激突の二塁打」と言い間違えた。正しくは「フェンス直撃」である。すると松井はすかさずこの一言を拾い、「激突? フェンスに激突してましたね〜」とおどけて見せた。その場にいた報道陣が一斉に笑った。そんな状況でも場の空気を読み、笑いに変え、その場にいる全員の緊張をほぐしてしまう。それが松井秀喜という人間だった。

ハイタッチを交わすボブ・メルビン監督(左)と松井秀喜(2011年)【写真:アフロ】ハイタッチを交わすボブ・メルビン監督(左)と松井秀喜(2011年)【写真:アフロ】

 転機が訪れたのは、6月だった。

 松井の起用を制限し始めていたボブ・ゲレンが成績不振を理由に監督を解任され、ボブ・メルビンが監督代行に就任した。マリナーズの監督時代にイチローと信頼関係を築き、松井を高く評価していることも知られていたメルビンへの監督交代劇は、追い風になるはず。期待感が一気に高まった。

空港で足止め…松井スタメンの“転機”に胸騒ぎ

 ところが、そのメルビンの監督代行初戦となる6月9日、敵地シカゴでのホワイトソックス戦の当日に”事件”が起きた。

 といっても、被害者は松井ではない。筆者だった。

 前日8日に敵地ボルチモアでのナイターのオリオールズ戦を取材し終えた筆者は、ホワイトソックス戦を取材するため、9日の朝一番の便でシカゴへ移動する予定を組んでいた。同じ便に乗ろうとしていた報道陣も複数いた。ところが搭乗口に向かうと、機材トラブルによる遅延のアナウンスが流れた。

 最初は2時間の遅れだという。試合はナイターのため、まだ余裕はある。空港で時間を潰しながら悠長に構えていた。しかし、待てど暮らせど出発の気配はなく、遅れは4時間、5時間、6時間と際限なく伸びていく。焦りが募り始めた頃、ついにアナウンスが流れた。

「この便はキャンセルになりました」

 頭が真っ白になった。

 すぐに航空会社のカウンターへ駆け込み、ほとんど話せない英語にジェスチャーを交えながら、「今日中にシカゴへ行かなければならない」と必死に訴えた。しかし返ってきた答えは冷たかった。「シカゴ行きは経由便を含めてすべて満席です」。他の航空会社を当たっても状況は変わらなかった。どうすることもできず、その日の移動は断念。翌朝の便に振り替えるしかなかった。

 日本ではほとんど経験したことのないハプニングに、筆者はすっかり参っていた。合間にアスレチックスのスタメンを確認すると、松井が「6番・DH」で名前を連ねている。相手の先発投手は左腕のマーク・バーリー。松井が好相性を誇る相手だったが、前監督のゲレンは左腕相手に頑なに松井をスタメンから外し続けていただけに、メルビンが監督代行に就任して転機が訪れたのは明らかだった。胸騒ぎがした。

12本塁打で終えた不本意なシーズンも…いつも変わらなかった姿

 空港近くのホテルに飛び込んで荷物を広げ、テレビをつけた。試合が進む中で、松井のバットから快音が響いた。5月3日のサヨナラ弾以来となるシーズン4号2ラン。不振が続き、地元メディアなどからも風当たりが強くなっていた中で飛び出した起死回生の一発を筆者はホテルで見届けた。

 松井が打ったことは心から嬉しかった。長い沈黙を破る本塁打。苦しんでいた選手が、ようやくその呪縛を解いた瞬間だ。番記者として、こんなに喜ばしいことはない。

 しかし、その現場にいられなかった。打った直後の球場の空気を吸えなかった。試合後に松井の表情を見て、言葉を聞くことができなかった。番記者として当然果たすべき責任を果たせなかった。嬉しさと悔しさと情けなさが入り混じった、奇妙な夜だった。

 翌日、早朝の便でシカゴへ飛んだ。スタジアムへ向かい、クラブハウスの扉を開けると、松井はいつもと変わらない様子で、黙々と試合の準備を進めていた。

 挨拶に行き、思わずこう告げた。

「せっかくのホームランを見られなくて申し訳ありませんでした」

 松井は少し笑って、こう言った。

「飛行機が飛ばなかったんだって? 大変だったみたいだな。それはしょうがないよな」

 ただ静かに温かく笑みを浮かべていた。やりきれなかった気持ちが、この一言ですっと楽になったことを今も鮮明に覚えている。

 メルビンが監督代行に就任した後も、松井の打撃成績が急激に回復することはなかった。2011年シーズンは結局、12本塁打で終えた。本人が納得できるシーズンだったとは、とても思えない。

 それでも、信頼を寄せる監督のもとでスタメンに名を連ね、打席に立ち続ける松井の姿を見られたことは、番記者としての小さな幸せだった。そして松井秀喜は、不振の日も、筆者が見られなかった起死回生の一発を放った翌日も、いつも変わらなかった。

※次回#5は、4/22(木)に公開予定です。
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(清水友博 / Tomohiro Shimizu)

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