社会人名門のはずが…体操着で練習 信頼失った退部騒動、25歳で痛感「真面目にやらなアカン」

3か月間を体操着で練習、会話もなし…支えだった村瀬耕次氏
厳しい立場からやり直した。元中日左腕の米村明氏は1984年のロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した野球日本代表メンバーでもある。社会人野球・河合楽器3年目に日本代表・松永怜一監督に見初められて選出されたが、この年は当初、そんなことを想像できるような状況ではなかった。前年(1983年)の退部騒動の影響で河合楽器では“戦力外”からのスタートだったからだが、結果的にはその時に取り組んだことが大きなプラスをもたらしたという。
目標にしていた社会人2年目のプロ入りを河合楽器サイドから許可してもらえず、米村氏は退部届、退職願を出したが、その後、恩師である中大・宮井勝成監督の“仲裁”によってチームに残留した。しかし、社会人3年目の立場は以前と同じではなかった。自己都合による退部騒動を引き起こしたことで、周囲の目はシビアだった。「キャプテンには『おい、米村! 俺はお前を戦力として考えていないからな』とはっきり言われました」。
主戦投手の座からの一気の“転落”だった。「3年目は1月から3月まで僕は体操服、ジャージーで練習していました。ユニホームを着させてもらえませんでした。ほとんどの人が話もしてくれませんでした。“お前みたいな、プロに行きたいってわがままを言って会社を辞めたヤツと一緒に練習できるか”みたいな感じでした」。まずはチームメートの信頼を取り戻さなければならない。出直しシーズンはそこから始まった。
そんな中で励ましてくれた人もいたという。「村瀬(耕次)さん。後に河合楽器監督になって、山井(大介、元中日投手、現中日投手コーチ)とかを優勝させた方ですが、その人に『ヨネ、頑張ろうな』って助けてもらいました。ご飯にも連れていってくれたし、平等に接してくれたんです」。精神的に苦しい時期を支えてもらいながら練習に明け暮れた。「毎日20キロ、走りました。“あいつはようやっているから仲間に入れよう”って言われたい。そんな思いしかなかったです」。
その積み重ねは自身の状態もアップさせた。「一生懸命、投げ込みをしたり、走り込みをしたり、あの時期にやったことはやっぱり身になっていたのかなと思います」。チームからもナインからも認められて4月にはユニホームを着ることができた。「先発はさせてもらえなかったけど、リリーフで使ってもらいました。結構、調子もよかったんです」。ひたむきな姿勢も継続し、結果も残して、野球人生の“流れ”もよくなった。野球日本代表の松永怜一監督の目にも留まった。
84年のロス五輪に急きょ選出→金メダル、知った日の丸の重み
日本代表は1983年9月のアジア枠代表決定戦で台湾に敗れて1984年ロス五輪出場の夢を絶たれていたが、五輪開幕3か月前にキューバが出場を辞退。急きょ、日本の出場が決まった。メンバーも予選とは大幅に変わり、その中に米村氏も入った。別の左腕投手が諸事情で出られなくなり、代わりに選ばれた形だったそうだが「全日本の合宿でも必死になってやっていたのを見てくれたのかなと思います。やっぱり野球には真摯に向き合い、真面目にやらなアカンということを学びました」と努力の成果でもあった。
五輪では予選リーグのニカラグア戦とカナダ戦にリリーフ登板。「ニカラグアの時はピッチャーゴロを捕ってファーストを見たら、もう(打者走者が一塁に)着きそうだったから、びっくりして投げて何とかアウトにしたのは覚えています」。決勝は米国に6-3で勝って、日本が金メダルに輝いたが、9回に2点を返されて「『米村! 左が来たら行くぞ』と言われていました。結局投げずに終わりましたけどね」と緊迫ムードも経験した。
「五輪でのことはあまり記憶にないんです。登板して何を投げたとかも全く……。とにかく一生懸命だったです。やっぱり日の丸を背負うってことが大きかった。こんなにプレッシャーがかかるんだなって思いました」。帰国すると、中大・宮井監督から「もう大丈夫だから、安心してドラフトを待っとけ」と言われたという。実際、その年のドラフト会議で米村氏は中日から5位指名された。河合楽器“戦力外”からの大巻き返しだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)