「嫌いだったんですよ、プロ野球中継が」 ドラ1右腕が激白…耳にした“噂”「何人か亡くなった方が」

元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】
元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】

救援でも先発でもタイトルを獲得した山沖之彦氏

 1984年に最優秀救援投手、1987年に最多勝と先発でも抑えでもタイトルを獲得したのが元阪急・オリックス、阪神投手の山沖之彦氏だ。高知県立中村高では1977年春の選抜準優勝、専大でも1978年春、1981年秋の東都大学リーグ優勝に貢献し、1981年ドラフト1位で阪急入りした191センチ右腕は少年時代から高身長だった。中学では当初バスケットボール部に所属したが、不気味な“帰り道問題”などのため中1の1学期で退部。その後に野球への道が開かれたという。

 1959年7月26日生まれの山沖氏は高知県幡多郡黒潮町出身。黒潮町立三浦小時代には特別に何かスポーツをしていたわけではない。「普通に遊んでいました(笑)。友達と三角ベースくらいはやっていましたけどね。小さな田舎ですからね。夏休みにソフトボール大会があって、それには参加したかな。あの時、どこを守っていたんだろう。外野やったかなぁ」。

 子どもの頃から体は大きかった。「小学校の4、5、6年と毎年、10何センチずつ(身長が)伸びましたからね。中学に入る時は180近かったのかなぁ。よく覚えていないけどね」。将来、プロ野球選手になるなんて思ってもいなかったそうだ。「だってね。嫌いだったんですよ、プロ野球中継が。当時の高知は民放2局。交互に野球(中継)をやるんですけど、いつも見ていた番組が見られなかったりもあった。“なんでこんなもんやるんや”って思っていました」。

 プロ野球には「全く興味がなかった」という。「(巨人の)王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さんくらいは知っていましたけど、あとは全然……」。1972年に黒潮町立大方中に入学したが、そこでも、軟式野球部ではなくバスケ部を選択。「田舎の連れもみんな“やる”っていうから、それなら一緒にやろうかって形でバスケットに入りました。(当時)学校もバスケットに一番、力を入れていたんじゃなかったかな」と振り返った。

中1でひとりだけバスケ部のレギュラー組入りも…1学期で退部

 山沖氏は遊びの延長で仲間とバスケットを楽しむくらいの感覚だったようだが、いきなり想定外の状況になったという。「1年でひとりだけ、すぐレギュラーと一緒の練習をさせられたんです。背が高いってことだけでね。ルールも知らないのに……。他の同級生は体を動かして夕方までには帰っていたんですが、僕は3年生たちと(午後)9時くらいまで練習。ランニングとかも全部ね。ついていけるわけがないじゃないですか。試合にも出されたけど、面白くなかった」。

 加えて「嫌だった」というのが1人だけの帰り道だ。「山を越えて8キロくらいを自転車で通っていたんだけど、帰りは真っ暗でね、昔の田舎道は舗装もしていない。そんな坂道だから上れないんですよ。で、押して上がったら時間もかかるじゃないですか。坂の上には大きな桜の木があったんですけど、本当かどうか知りませんが、あそこで昔、何人か亡くなった方がいるとか、そういう話も聞いたことがあったんです。あまり気持ちのいいものではないし、そこを自転車の灯りだけで……」。

 練習は地獄、帰りは“不気味”。中学1年の山沖氏にとってはつらい日々が続き、ついには1学期だけで退部した。そんな時に目に飛び込んできたのが軟式野球部の練習風景だったという。「グラウンドで一般学生と一緒に試合をやって楽しんでいるのが野球部だったんですよ。監督さんも出てきてなかった。たまたま田舎の先輩も2人いたし、ああやるならこれだと思った。それで2年になってから野球部に入りました」。

 バスケ部をやめたあとの1年2学期、3学期の間は「何もしてないです。バスケットをやめてすぐ違うクラブに入るのは、かっこ悪いと思ったんでね」。そんな“充電期間”を経て、山沖氏は大方中軟式野球部の一員となった。「僕が入った時から監督が毎日来だしたんで、それは計算違いでしたけどね」。もしも、あのままバスケを続けていれば、その後に歩む道は全く違うものになったかもしれない。「背が高いからピッチャーをやらされました」。それは投手人生のスタートでもあった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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