選抜準V→県初戦敗退で「監督とコーチが丸刈り」 想定外の結末に謝罪「負けるはずはないと…」

エースの山沖之彦氏率いる中村高は夏の地方大会で初戦敗退
高校生活最後の夏は“まさか”で幕を閉じた。1977年、春の選抜準優勝の高知県立中村高エースだった山沖之彦氏(元阪急・オリックス、阪神)は、その年の夏に甲子園へ戻ることはできなかった。選抜後の春の四国大会を制するなど、夏も南四国代表の最有力候補だったが、高知大会1回戦で高知商に4-5で敗れた。「投げ込み不足、スタミナ不足でした」。まさに思わぬ事態で、中村・市川幸輝監督は大会後、丸刈りで“謝罪”していたという。
甲子園で部員12人の“二十四の瞳旋風”を巻き起こした中村高は、選抜準優勝後も、その力を見せつけた。春の高知大会では高知高との代表決定戦に3-0。191センチの長身エース・山沖氏が完封しての勝利で、高知、徳島、愛媛、香川の4県の代表1校が出場する春の四国大会に駒を進めた。そこでも愛媛代表の新居浜商を8-4で下し、決勝は降雨ノーゲームを経ての再試合で丸亀商に5-4で競り勝って優勝した。
山沖氏は、四国大会もすべて完投。好投手として、常に注目を集める存在になっていたが「重圧? そんなのは別になかったと思いますよ」とあっさり。選抜が終わって、中村ナインのファンも増えたそうだが「何かすごかったみたいですね」と人ごとのよう。「自分にはそんなのはあまり……。まぁ、自転車で学校に通っている時に『頑張ってよ』っていう声は増えたかな、というのはありましたけどね」と淡々と話した。
部員数も変化した。「甲子園に出たってことで、1年生が何人か入ってきたと思う」と“二十四の瞳”ではなくなったが、チーム力は不変。「夏も甲子園に行けると思ってやっていたというか、行かなきゃって感じでした」。だが、山沖氏の高校生活最後の3年夏は“無念の夏”になった。当時は高知大会と徳島大会の上位2校出場の南四国大会を制した学校が、夏の甲子園に出場。中村は、その最有力候補に目されながら、まさかの高知大会1回戦負けだった。
暑さに奪われた体力「自分の調整ミス」
「あの時、高知にはシード権とかなかったんでね」と山沖氏が話すように、いきなり強豪・高知商との対戦となり、4-5で敗れた。その試合、中村は初回に2点先制、2回にも1点を加えて3-0とリードしていたが、3回に追いつかれ、4回には2点勝ち越された。7回に1点を返したが、及ばなかった。「あれはね。自分の調整ミスでした。投げ込み不足だったんです。だからスタミナがなかったと思う」。
強豪相手でも負けるとは思っていなかった。「(2回までに)3点取った時点で勝ったと思った。もう負けるはずはないと思った。けど、体がいうことをきかなくなって……。あの日は暑い日でねぇ。それにも負けてしまったというか……。とにかく、だるかったですもん」。まさしく、まさかだった。負けた瞬間は「悔しいというよりも“ああ、なんで”って感じだった。ボーっとなったままだったですね」という。
目標にしていた甲子園春夏連続出場はならなかった。あっという間に夏が終わった。「でも涙は出なかったかな。そういうのはなかったと思う。ただ、他のメンバーに悪いなぁっていう気持ちばかりでしたね。僕がいつも通りやっていたら、しっかりしていたら、ってね」。中村に勝った高知商は、南四国大会準決勝で鳴門工(徳島)に敗戦。その年の夏の甲子園大会には、春の高知大会代表決定戦で中村が快勝した相手・高知高が、決勝で鳴門工を破って出場した。
「まぁ、計算外でしたよね」と山沖氏は話す。「だって、監督とコーチは丸刈りにして大阪に行きましたからね。大阪に、中村高校の同窓会みたいな支部会があるんですけど、監督たちはそこに“申し訳ありませんでした”と謝りに行ったんですよ。向こう(大阪)の人たちは、甲子園に来るもんやと思っていたでしょうから、一応、挨拶に行かなきゃ、っていう感じだったと思います。僕たち(選手)は行っていないし、ああ行ったんだって思っただけでしたけどね」。
高校3年時に、大盛り上がりの春と“大盛り下がり”の夏を経験した山沖氏は次の進路を早い段階から大学1本に決めていたという。だが、プロも魅力いっぱいの逸材に対して黙っていなかった。「12球団全部が来てくれました」。最終的には専修大学進学となるが、そこに至るまでには、思わぬ展開があったし、後にお世話になる阪急ブレーブスとの“縁”もこの時から始まることになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)