プロ拒否も…破談になった法大進学 コンクリ2時間正座は「当たり前」、サイン首振りは“不可能”

元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】
元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】

山沖之彦氏は法大進学予定も高3の12月に“破談”→専大へ進学

 元阪急・オリックス、阪神右腕の山沖之彦氏は1978年、高知県立中村高を卒業し、専修大学に進学した。当初は法政大に“内定”していたが、高校3年の1977年12月になって、中村高の市川幸輝監督から突然、反対されて一転して“破談”。その後「専大がとってくれることになった」という。専大では4年生・中尾孝義捕手(元中日、巨人、西武)とのバッテリーで1年時から実力を発揮。いきなり東都大学野球春季リーグで優勝を経験した。

 エースとして中村高を1977年春の選抜準優勝に導いた山沖氏は、プロ12球団からの誘いを断って、卒業後の進路を大学1本に絞った。法大への進学が“内定”していた。その年の11月22日のドラフト会議は、どこの球団からも“強行指名”されずに終了。あとは、法大入りの準備を進めるだけだったが、12月になって急転した。「ウチの(市川)監督が『法政にお前を預けられない』と言って、その話はなくなったんです」。

 四国大会で対戦したこともある愛媛・新居浜商の監督で法大OBの鴨田勝雄氏が1978年から法大野球部の新監督に就任することとなって、反対されたという。「それまで法政に行くつもりでいたから“えーっ”てなりましたよ。監督同士がライバル関係にあったのかはわからないし、仲が悪かったのかどうかも知らない。そこまでは聞けへんでしょ」。その後、市川監督の尽力で、専大への進学に切り替わった。

「(専大が)とってくれるというのでね。(中村高の)キャッチャーとセンターが先に専大に決まっていて、僕を入れて3人が行くことになったんです。専大には先輩も2人いたし、そういう意味では気が楽でしたけどね」。“行き先”は急きょ変わったが、山沖氏は1年春から、頭角を現した。4年生の中尾とバッテリーを組み、4年生エースの堀田一彦投手、同期の見形仁一投手らとともに、専大の春季リーグ優勝に貢献した。

「中尾さんと初めて組んだのは東海大とのオープン戦でした。中尾さんは変化球好きで、カーブのサインがいっぱい出てくるんですよ。それで途中でね、首を振ったんです。そしたら東海大ベンチがヤジる、ヤジる。『おい、おい、1年坊が首振ったぞぉ』ってね。そしたら、中尾さんが(マウンドに)たたっと来て『言う通り投げや』って。それからは首を振ったことがないです」。そんな始まりから、リーグ戦でも結果を出した。

1年春の東都リーグ優勝に貢献→日米大学野球に“裏方”で帯同

 大学では寮生活。先輩、後輩の上下関係については「(専大は)僕らが入学する以前に寮生の脱走が学校で問題になって、それで、そういうのもちょっとはおとなしくなったという話は聞いたことがありました。でも、きつかったですよ。コンクリートの上に2時間正座とかは当たり前やったですからね」という。その点でも1年時から戦力になったのは大きかったそうで「自分に、もしものことがあったら、先輩がどうなるかわかりませんから。ある程度は楽だったかなぁ」。

 1978年春の東都リーグを制したことで、同年6月上旬の全日本大学野球選手権大会にも出場。専大は九州産業大、東北学院大、千葉工業大を撃破して決勝に進出したが、高橋三千丈投手(元中日)、鹿取義隆投手(元巨人、西武)、豊田誠佑外野手(元中日)らを擁する明大に敗れて準優勝だった。「決勝は堀田さんが投げたと思うけど、あまり覚えていない」。山沖氏はそれよりも、6月下旬に日本で開催された日米大学野球選手権大会の方が印象深いという。

 1年生で日本代表に選出されたわけではない。「手伝いです。バッティングピッチャーとかをやったんですよ」。選手としては専大から中尾捕手、堀田投手、漆畑和男外野手の3人が出場していた。「で、練習が終わったら、先輩たちの洗濯物を持って帰るんです。そしたらね、他の大学の人たちも僕らに『これも頼むわ』って渡すんですよ。嫌とは言えへんじゃないですか。だから明治の鹿取さんのとかも洗濯したんじゃないかなぁ」。

 山沖氏は思わぬ形で専大に進学し、いきなり春の東都リーグ優勝に貢献。さらには日米大学野球での“下働き”も早々に経験したが、学生生活は始まったばかり。大学4年間では東都2部に転落したり、怪我に見舞われたり、再び1部で優勝したり、ドラフト候補になったりとまだまだ様々な出来事が起きていく。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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