1球団だけ指名拒否「行きません」 険悪なはずが…4年後に待っていた結末「外れやろ」

山沖之彦氏は社会人・四国銀行に進むはずがプロも視野…絞った3球団
元阪急・オリックス、阪神投手の山沖之彦氏は1981年11月25日のドラフト会議で阪急から1位指名されて入団した。当初は専大から、出身地・高知の社会人野球・四国銀行に進む考えだったが、11月上旬過ぎからプロ入りも視野に入れ始めていた。ただし、どの球団でも行くつもりだったわけではない。熱心に誘ってくれたことや、専大との関係性なども重視した上で、阪急を含めて3球団に絞っていたという。
専大のエースだった山沖氏は大学4年間の東都リーグ1部通算成績は53登板、22勝22敗、防御率2.29。途中、2部転落も経験したが、1978年の1年春と1981年の4年秋に1部で優勝し、最初と最後に栄冠をつかんだ。プロスカウトからも熱視線を送られたが、卒業後は地元・高知に戻り、四国銀行でプレーする考えだった。だが、そんな“就職活動”による調整不足で、4年秋のリーグ戦優勝後の明治神宮大会決勝で法大に敗れたことで気持ちが大きく揺れた。
「何か引っかかったんですよね。(四国銀行に行くことを優先して)あれで負けたというのが……。それで田舎に電話したんです。親父に『もう一回やらせてほしい。プロも考えさせてほしい』ってね。将来は(地元で)サラリーマンになるって話はしていたし、自分も四国銀行で、ある程度したら(実家から近い)中村支店みたいなところに行って、家から通うような形にしたいとか、そんなことも考えていたんですけどね」
反対はされなかったという。「自分が電話する1週間くらい前に広島のスカウトの方が実家に来られたそうなんですよ。で、『ウチはドラフト1位を(協和醗酵の)津田(恒実投手)で行くので、2位での指名を考えているけど、もし、その前に(他球団から)指名されたら(プロに)行くように勧めてください』と言って帰られたって。親父もその話を聞いて“ほう、そうなんだ”となっていたみたい。まぁ、いろいろ考えたとは思うんですけどね」。
ドラフト会議の10日前くらいの時期になって、プロも視野に入れることになった。ただし、四国銀行に内定していたこともあって「“(プロの)行くところを言ってほしい”って言われた」という。考えた末に専大OBである古葉竹識監督の広島、専大OBの堀込基明スカウトがいる中日、高校時代から藤井道夫スカウトが担当の阪急の3球団に絞った。「四国銀行にはその3つ以外からの指名だったらお世話になります、ということで了承を取りました」。
阪急にドラ1指名…築かれたスカウトとの絆、深かった“縁”
阪急・藤井スカウトとは高知県立中村高校3年時の“交渉”で口論となり「大学でうまくなっても阪急だけは行きません」と山沖氏が断言する事態にまでなっていたが、「藤井さんはその後もずーっと見に来てくれたんです。話はしなかったけど、一番、見てくれたのはあの方だったと思ったんでね」と過去の一件などまるでなかったかのように“相思相愛”の関係になったそうだ。そして、ドラフトではその阪急に1位指名された。
「広島は津田、中日は(中大の)尾上(旭内野手)、阪急は(報徳学園の)金村(義明投手)に1位は決まっていたから、新聞記者にも『俺のところに取材に来てもあれやから』とか話していたんですけどね」。広島と中日はそれぞれ単独1位入札で、津田と尾上の交渉権を獲得したが、金村に関しては阪急と近鉄が競合。抽選で敗れた阪急が外れ1位で、山沖氏を指名したのだった。
「連絡が来た時は“決まったな”って。それくらいでしたね。(入札)1位なら“ワー、すごいな”って思うけど“外れやろ”ってね。それは今でも思っていますよ」。とはいえ、希望球団のひとつであり、入団交渉はスムーズ。「四国銀行にも挨拶に行きました。頭取がね、高知県の阪急ブレーブスの後援会長だったんですよ。当時、高知で阪急はキャンプをやっていましたからね。頭取からは『僕の口から行くなとは言えません。頑張って下さい』と言われました」と笑みを浮かべながら話した。
振り返れば、阪急とは藤井スカウト以外にも縁があったという。「(1977年に)選抜に出た時、西宮第二球場を優先的に使わせてもらったんですよ。高知キャンプをしているってことでね。室内ブルペンで投げたんですけど、(当時ルーキーの)佐藤(義則)さんがピッチングされていたのを覚えています」。専大から上田利治監督率いる阪急へ。191センチの長身右腕・山沖氏のプロ野球人生がスタートした。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)