全裸で聞いた絶叫「勝ったぞぉ!」 9回に痛恨被弾も…窮地救った激レア“13文字”

元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】
元阪急・山沖之彦氏【写真:山口真司】

山沖之彦氏は2年目の1983年に15勝…1年目の7勝から飛躍

 痛い出来事も乗り越えた。191センチの長身右腕・山沖之彦氏(元阪急・オリックス、阪神)は、プロ2年目の1983年に15勝をマークした。1年目の7勝からのジャンプアップとなったが、開幕前には、この年から加入した助っ人ブーマー・ウエルズ内野手の打球が当たって負傷するアクシデントに見舞われていた。シーズン中のロッテ・落合博満内野手絡みの“ミラクルな出来事”も印象深いという。

 山沖氏はルーキーイヤーの1982年、4月4日の近鉄戦(西宮)で日本プロ野球初の新人投手の開幕戦セーブをマークしてデビュー。5月7日の西武戦(西武)から先発に回り。いきなり完投で初勝利を挙げるなど、存在感を示した。予告先発ではない時代、8月12日の近鉄戦(日生)では、偵察要員として「5番・DH」でスタメンに名を連ねたが、DHも相手先発が降板した場合を除き、1打席立たなければいけないルールを上田利治監督が忘れていたために打席に入る“経験”もした。

「自分は上がりのピッチャーやったんですよね。で、練習が終わって風呂に入って上がったらマネジャーが『打席に立てよ』言うて……。その年からそういうルールだったんですよね」。慌てて着替えたという。「(初回1死)満塁でしたからね。相手は(近鉄エース左腕の)鈴木啓示さん。内野ゴロだけは絶対駄目やったけど、1回だけ振りたかったんですよ。1球目ストライクで、2球目にファウルを打った、バックネットに。それで十分。3球目はボールで、4球目に見逃し三振でした」。

 1975年のDH制導入後、パ・リーグ主催の公式戦で投手が投手以外のポジションで先発出場して打席に立った初のケース。山沖氏はここでも“初”を記録した。そんな1年目の成績は30登板、7勝15敗1セーブ、防御率3.84。15敗はその年のリーグワーストで「上田監督がよう使ってくれたと思います」。勝った喜びも、負けた悔しさも、すべてが次の年につながった。2年目の1983年は34登板で15勝8敗2セーブ、防御率3.48。勝敗をほぼ逆にした。

ブーマーの打球が脛に直撃…13針を縫う大怪我

 当時は表彰がなかったが、2年目はリーグ最多の143奪三振も記録。プロ初完封勝利を挙げた8月25日の南海戦(西宮)から10月2日の南海戦(大阪)まで7試合連続完投勝利を記録するなど、大きく飛躍した。もっとも、開幕当初は万全な状態ではなかったという。「(後楽園球場での日本ハムとの)開幕遠征に行く前にシートバッティングがあって、投げたんだけど、ブーマーのピッチャー返しが左向こう脛に当たったんですよ」。

 思わぬアクシデントだった。「病院に行った瞬間『ウワー、これはひどい、骨、出てるぞ』とかなんか言われて……。全部で13針縫ったんだったかな」。そこからのスタートだった。開幕遠征には帯同できなかったが、2カード目2戦目の4月13日の近鉄戦(日生)に先発。7回を4失点でシーズン初白星をつかんだ。「(痛めた箇所が)一番動かないところだったから良かったんですけどね」。4月はこの1勝だけだったが、徐々に調子を上げていった。

 シーズン15勝のうち、9勝を後半戦に積み重ねた。その間に7試合連続完投勝利も含まれているが、2試合連続完投勝利となった8月31日のロッテ戦(西宮)はミラクルだった。8回まで1安打投球を見せていたが、打線も相手先発・中居謹蔵投手から得点できず、0-0で9回に突入。その回にドラマが起きた。「覚えていますよ。(9回表に)落合さんに(先制)3ランを打たれたんですよね」。

 この一発は落合の通算100号でもあった。打たれた山沖氏がガクッとなったのは言うまでもないが、その裏に劇的な幕切れが待っていた。「ほんで、9回を投げ終わるでしょ。『もう帰れ』って(上田)監督に言われて風呂に入っていたら、(9回裏の阪急の攻撃で)松永(浩美内野手)が逆転満塁ランニングホームランを打って……。監督が喜んで、風呂まで来て『山沖! 勝ったぞぉ!』って」。このサヨナラ勝ちで山沖氏は9勝目をマークした。

 そのまま山沖氏は“完投ラッシュ”となり、チームでは今井雄太郎投手とともに勝ち頭の15勝。14勝のエース・山田久志投手とともに3本柱を形成したが、翌1984年の3年目には立場がまた変わる。今度は抑えとして活躍し、優勝に貢献する。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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