不満爆発でビールかけ不参加 胴上げ投手は辞退…喜べなかったV「こんなタイトル、いりません」

山沖之彦氏は抑えに転向し、6年ぶりリーグ優勝に貢献
上田利治監督率いる阪急ブレーブスは1984年、パ・リーグを制した。1978年以来、6年ぶり10度目の優勝だった。元阪急右腕の山沖之彦氏は、その立役者の一人。シーズン早々に先発から抑えに転向し、11勝8敗15セーブの成績を残し、25セーブポイントで最優秀救援投手のタイトルも獲得した。だが、リリーフが嫌で決して喜べなかったという。優勝決定試合では胴上げ投手を打診されながら辞退し、祝勝会も乾杯だけで引き揚げたほどだった。
1984年9月23日に上田阪急はリーグ優勝の栄冠をつかんだ。その日の近鉄戦(藤井寺)の途中で、2位・ロッテが敗れたことで決まったが、試合も4-4の9回に4点を勝ち越して、8-4で勝った。それが球団通算3000勝目でもあった。そのラストを飾る9回裏に、抑え投手の山沖氏に対して上田監督から「行くか? 胴上げ投手になるか?」との打診があったが「いや、いいです」と首を振ったという。
「そんなもんいらんと思った。(先発の)今井(雄太郎)さんが、ずっと投げていたし、そんなとこで出ていくのは……って思ったし」と山沖氏は言う。11勝15セーブと数字は残したものの、この年の先発は4月30日の近鉄戦(西宮)が最後で、残りはずっとリリーフだったのが不満だった。「やった、という気持ちになれなかった。よう(ファンからも)ヤジられましたもん。『おい山沖! 今日は投げるなよ』とかね。それだけハラハラさせていたのかもしれないけど……」。
必死に調整して、体に鞭打って投げまくっていても、抑えて当たり前、打たれたらボロクソの世界。「自分は(マウンドに)行く前に30球くらい投げないと落ち着かないんですよ。で、行くのかと思ったら(試合展開で)行かなくなって、また最初からやるっていうのも嫌で。肘の状態もよくはなかったし、そういうのもあったから先発したかったんですよ。わがままだったかもしれないですけどね」。その思いを抱きながらのリリーフ稼業だっただけに「面白くなかった」という。
リリーフでのタイトル祝福に「ムカッときてね」
そんないろんなことが積み重なって、胴上げ投手の“辞退”にもつながったのだろう。V決定後の祝勝会は近鉄戦が行われた藤井寺球場から移動して、本拠地・西宮球場で始まったが、山沖氏はそこでも「乾杯だけしてすぐ帰りました」とビールかけにも参加しなかった。「優勝してもうれしくなかったですからね」。リーグの頂点に立った歓喜の宴となっても、どうしても、そこで騒ぎたい気分にさえもならなかったそうだ。
さらに山沖氏は「その年にはね、誰からとは言わないけど、『お前は人の褌(ふんどし)で相撲を取れるからいいよな』って言われたこともあったんですよ。あの時もクソーって思いましたね」と付け加えた。まるで先発投手のおかげで抑え投手が数字を残しているかのように言われて、腹が立ったという。なおさらリリーフが嫌になり、25セーブポイントで最優秀救援投手に輝いた時には思わず「こんなタイトル、いりません」と口走った。
「新聞の囲み(取材)かなんかで言いました。『おめでとう』とか言われて、何かムカっときてね……。あの頃は周りのことを考えていなかったですからねぇ。(阪急前監督で解説者の)西本(幸雄)さんには『いらんもんにはやるな!』ってテレビ(のスポーツニュース番組)で言われました」と今では反省しきりだが、当時は憤る気持ちを抑えられなかった。
セ・リーグ覇者の広島との日本シリーズで阪急は3勝4敗。惜しくも日本一を逃したが、山沖氏はペナントレース同様に抑え役を務め、2勝1セーブをマークする活躍でシリーズ敢闘賞を受賞した。「リリーフが嫌」との不満を持ちながらも結果を出した。「ふてくされていたら来年使ってくれるか、どうかっていう自分に自信がないから一生懸命行くんですよ。(いろいろ発言しても)何とかなるわって思っていたら、やっていなかったかもわからない」と笑いながら“自己分析”したが、まさに“やるときはやる”を見せつけた形でもあった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)