球速130キロ台「ドラフト3位で何これ?」 新人合同自主トレ不参加…苦悩した元鷹右腕

千葉商科大・木村茂コーチは1997年ドラフト3位でダイエー入り
かつて自らが歩んだ道を、29年の時を経て教え子が追いかけようとしている。千葉商科大の木村茂コーチは1997年ドラフト3位でダイエー(現ソフトバンク)に入団。現在は母校で指導にあたり、今秋ドラフト候補に挙がる吉川凌平投手を見守っている。「本当に吉川と一緒の境遇なんです」。2人の野球人生には、不思議なほど重なる部分がある。
木村コーチも、最初からプロを夢見ていたわけではなかった。高校時代は「3番手とか」と振り返り、千葉商科大でも「まさかプロ野球に行けるなんて思っていなかった」。転機はリーグ戦だった。プロ注目の国際武道大の打者を視察していたスカウトの目に、たまたま登板していた右腕が留まった。
その後は大学日本代表にも選出され、複数球団のスカウトが視察に訪れるようになった。そして1997年ドラフトでダイエーから3位指名。「夢なのか嘘なのか」。想像すらしていなかったプロへの扉が突然開いた。
ところが、プロ生活のスタートから異例だった。新人合同自主トレに「1日も出なかった」と言い、そのままキャンプインしたという。理由は大学の単位。「授業に出ながら、向こう(福岡)に行ったら授業に出られないじゃないですか」。学業を優先した結果、他の新人が参加する中で、ただ1人出遅れた。
キャンプではさらに周囲をざわつかせた。ブルペンで出た球速は130キロ台前半。「ドラフト3位で何これ? みたいな雰囲気でざわざわしていた」。当初は興味を示していた周囲も次第に離れていったという。しかし、キャンプ中盤の練習試合で145~146キロを計測すると状況は一変。「離れていたみんなが戻ってきた」。その後はオープン戦でも結果を残し、開幕1軍を勝ち取った。
華々しいスタートとは裏腹に、その後は苦しんだ。同じドラフトで即戦力として入団した投手たちが活躍する中、自身は1軍と2軍を行き来し、2年目には故障も経験した。「他のドラフト同期は活躍していますけどどうですか」と周囲から比較され、「人のことなんか関係ない」と思いながらも意識させられた。「つらかったですね」。プロの世界の厳しさを身をもって知った。
「1人でも僕の後に」母校で抱き続けた思い
現役を退いた後は、野球とは異なる世界へ進んだ。縁があって商社に入り、その後の転職をきっかけに東京へ戻った。地元は千葉県市川市。そこで大学関係者と食事をする機会があり、「よかったらちょっと大学野球を手伝ってもらえないか」と声をかけられた。しばらく考えた末、母校で再び野球に携わることを決めた。
指導者として1つの目標があった。「1人でも僕の後に、プロ野球選手が出ればいいな」。独立リーグや社会人へ進んだ選手はいたが、NPBとなれば木村以来、長く誕生していない。その思いを抱く中で出会ったのが吉川だった。
もっとも、高校時代の吉川を初めて見た時から特別な存在だったわけではない。「まあまあ強いボール投げるな」という程度。同じ練習会には、より印象に残る投手もいたという。評価が変わったのは入学後だった。「ピッチャーで一番大事な負けん気の強さが他の選手より群を抜いていた。これは下手したら伸びるぞと感じた」。その予感は、少しずつ現実になっていった。
吉川が練習をやりすぎて、木村コーチが怪我を心配して止めることもあった。リーグ戦で交代を告げられそうになれば「いや、まだ投げたいです」と譲らない。監督が折れて続投を認めたこともある。木村コーチがプロで勝負するために必要だと考える「負けん気の強さ」「悔しいと思う気持ち」「向上心」を、吉川は持ち合わせていた。
だからこそ、技術を教え込むことはほとんどしなかった。本人が聞きたいことがあれば聞けばいい。その一方で、繰り返し伝えてきたことがある。「みんなに応援される選手になりなさい」。負けず嫌いで気持ちが強いからこそ、時に周囲へ強く当たることもある。投球や変化球ではなく、人としての立ち振る舞いを説いてきた。
「今の気持ちを忘れずにやってくれれば、間違いなく活躍すると思います」
指名されることがゴールではない。「入団後にどうやって活躍するかが大事」。華やかさも、苦しさも知るからこそ、その言葉には実感がこもる。まずは最後のリーグ戦を戦い抜き、その先へ――。29年前に自らが開いた道の続きを、木村コーチは教え子に託している。