阪神から戦力外通告も…監督に直訴「もう1年やらせて」 待った電話「2週間くらい経って」

山沖之彦氏はオリから阪神へFA移籍も…1軍登板機会なし
無念の決断だった。阪急・オリックスで主力投手として活躍した山沖之彦氏は1995年限りで現役引退した。1994年オフにFAで阪神に移籍したが、高知・安芸キャンプで右肩痛を発症。リハビリを経て2軍戦では投げられるまでにはなったが、本来の姿には程遠く、1軍登板機会なしでシーズンを終えた。1年契約だったこともあって、戦力外を通告された。現役続行を模索したものの芳しくなく、「無理は言えない」とユニホームを脱ぐことになった。
当時低迷していた阪神を救うFA右腕として期待された山沖氏は、1995年2月の高知・安芸キャンプで右肩に違和感を覚えた。「最初は1週間に1回ズキっとなったが、キャンプが終わってからはそれが毎日になった」。高知県立中村高、専大、阪急、オリックスと投げ続け、「肩は高校の時に1度痛めたけど、その時は鍼治療で次の日には投げられるようになった」と言う。プロに入ってから右肘痛に苦しんだ時期はあっても、右肩に異常を感じたのは初めてだった。
先発でも抑えでもフル回転で無理を重ねた過去のシワ寄せも含めて一気にきたのかもしれない。「どこかの新聞には震災(阪神・淡路大震災)の時にタンスが倒れてきて、肩に当たって痛めたって書いてあったけどね。そんな話はないし、当たっていないよ」と苦笑したが、この右肩痛が想像以上にやっかいなものだった。長期間、痛みがついてまわった。「プールでも平泳ぎはできるけどクロールを(肩を回して)やろうとしたら“あらぁ”って……」。
それでも必死にリハビリに励み、2軍戦に登板できるまでにはなったが、納得できるボールは投げられなかったという。「8月くらいだったかな。中日戦でね。(試合前に)山村(宏樹投手)とだったと思うけど、キャッチボールをしていて、もうあと3球くらいの時に肩にかかったんですよ。バーンと。“ああ、ええ感じや”と思って2球投げて、3球目を投げようとしたらノックの時間になって……。そのまま試合で投げたんですけど、やっぱり、その時も駄目やった」。
決断に繋がった恩師・上田利治氏の言葉
全く結果を出していなかったわけではない。「2軍ではもう1試合投げて、5回を1安打1失点に抑えたんですよ。それで(2軍首脳陣からは)『上(1軍)と(昇格を)相談するけど』って話もあったんですけどね」。その時は山沖氏が断ったという。「『そんなもん、いいです。無理です』と言いました。だって指にかかっていないボールをいくら投げても(1軍では)抑えられる気がしなかったんでね」。1軍は甘くないとわかっていた。
「だって(2軍で)1安打1失点の時もピッチャーにホームランを打たれたんですよ。野手にとって自分の球は遅かったんです。遅いから打てなかっただけなんですよ」。結局、1軍登板なしのまま、シーズンを終えた。右肩さえ完全に治れば、まだやれるとの思いではいたが、阪神からは戦力外を通告された。「(当時1軍監督代行の)藤田(平)さんに『もう1年やらせてください』ってお願いには行きました。『会社の返事を待っとけ』って温かく言ってもらったんですけどね」。
だが、なかなか返事が来なかったという。「待ってもこなかったから、2週間くらい経ってから自分が(球団に)電話したんだったかなぁ、あまりよく覚えていないけど」。戦力外、自由契約が変わることはなかった。山沖氏は他球団での現役続行を模索した。「上田(利治)さんのところにも電話しました。どこかないかなと思って……」。元阪急・オリックス監督で恩師の上田氏は当時、日本ハム監督だったが、右肩が万全ではない36歳の投手にとって現実は厳しかった。
「上田さんに(状況を)説明したら『そうかぁ、もうええやろ。ほんなら早いとこ、解説とかやらんといかんな』って言われました。“違う、違う、そういう話じゃない”って思ったんやけど、“これはもう無理は言えないな”って思いました」。引退を決断。プロ野球での現役生活は14年で幕を閉じることになった。阪神で1試合も1軍で投げられなかったのは悔しくてたまらなかったし、ファンに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったという。
通算成績は112勝101敗24セーブ、防御率3.92。「プロ10年目(1991年)に100勝はできたけど、その後の4年で12しか勝っていないというのは、やっぱアカンなぁと思いますね」。山沖氏はしみじみと話したが、1981年ドラフト1位で専大から阪急入りし、1984年には最優秀救援投手、1987年には最多勝を獲得した。最後は無念の結末だったとはいえ、その実績はいつまでも輝いている。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)