智弁和歌山・高嶋前監督が大切にしてきた“補欠”の存在 「いたから勝てた」
勇退記念パーティーが行われ200名を超える教え子が新たな門出を祝った
今年8月に智弁和歌山の指揮官を勇退した高嶋仁前監督の勇退記念パーティーが1日に和歌山市内のホテルで開かれた。200名を超える教え子らが集まり恩師の新たな門出を祝った。
100回大会の夏の甲子園が終わった直後に高校野球界に衝撃が走った名将の勇退報道。甲子園通算68勝を挙げ、これまで数々の名勝負も繰り広げてきた。8月に行われた記者会見では勇退を決心したのは健康上の理由もひとつだと語っていたが、72歳とは思えない生きいきとした表情を会見でも見せていた。
高嶋氏は1970年に奈良の智弁学園のコーチになり、80年に智弁和歌山に移籍するなど48年にわたって高校球児を指導してきた。
「48年間、ずっと思ってきたのは何とかコイツらを甲子園に連れて行きたいと。奈良の智弁学園にいた時は天理が4時間練習しているなら8時間は練習しなアカンと思って厳しく指導もしてきました。当時の選手らに練習をボイコットされたこともあったけれど、選手と対話して選手が理解してくれて練習に戻って来てくれて。そして甲子園に出られるようになった。当時の選手らには感謝しかないです」
ただ、智弁和歌山の監督に就任し85年に初出場を果たすも5連敗を喫するなど、甲子園に出てもなかなか勝てない時期が続いた。そんな中、1学年を10人前後とする少数精鋭制を敷くと93年の夏の甲子園で初勝利を挙げ、94年センバツで優勝を果たす。