【あの夏の記憶】当時高校最速151キロ 元ホークス・新垣渚から163キロ右腕・佐々木朗希へのエール
松坂世代代表する右腕 現在はホークス球団職員で子供たちを指導
ソフトバンク、ヤクルトでプレーし、最速156キロの直球で野球ファンを魅了した新垣渚氏は、現在はNPO法人ホークスジュニアアカデミーの「ホークスべースボールスクール」のコーチを務めている。沖縄水産高3年時には夏の甲子園で当時高校生最速の151キロをマーク。あれから21年が経ち、今では大船渡・佐々木朗希投手が高校生最速の163キロを投げるまで、時代は移り変わった。新垣氏に高校時代のこと、佐々木の凄さとエールを語ってもらった。
――沖縄水産高校時代、名将・栽弘義監督はどのような存在でしたか?
「大きかったです。僕の野球人生は監督が占めています。僕の性格を知りながら、練習プランを考えてくれていました。当時は足(けがしていた右脛)を理由に走らないというのはあったので、『なまけもの』と言われていました」
――なまけもの、ですか?
「監督は目を光らせていました。なので、できる範囲の中で走らされました。厳しいなと思ったら、止めて、そこからウエートトレーニングに進むというようなバランスをとってもらいました。僕は下半身が弱く、上半身投げ。だったので、壊れない上半身をうまく作ってくれたのは監督の思いとアイディアでした」
――150キロ右腕として注目を集めていましたが、スピードを追い求めていたのはいつ頃からですか?
「元々、小学校から人よりボールは速いと思っていました。中学も速かったですが高校の同級生の宮里(康)、僕より体小さいけど僕より速い。彼が3年春までエース。夏やっと1番とれた。そういう現実、早いな勝てないなと思っていたけど、そこから速い球投げたいという元々ずっと僕のあったもので、なんとか頑張って超えよう。誰よりも速い球を投げようと思いはありました」
――今は160キロ投手が高校生で出てきています。
「すごいなとしか思いません。ただ“そういうものなのかな”とも思います。140キロ出せばプロになれると思っていた時代から、僕らから(その目安が)150キロになった。いずれそういう(160キロを投げる)選手がでてきてもおかしくはありません。大谷(翔平)君の時にそう思いましたけど、ついに出てしまうと、それが現実ですし、日本の高校野球のレベルがものすごく上がったんだなと、実感をしています」
――時代の流れ……ですね。
「そこはやはり、現代医学、現代スポ―ツ史、トレーニング、食事も、進んできている。それぞれの役割の中で、その時のベストを尽くしています。それが今のベスト、160キロ出るのは喜ばしいことですし、すごいことです」