「別所引き抜き事件」「三原ポカリ事件」…球史を彩った1リーグ時代の鷹と巨人
戦前は巨人が60勝15敗1分けと鷹を圧倒、戦後は巨人の35勝36敗1分けと互角の戦いに
巨人は1936年から、ソフトバンク前身である南海は1938年秋シーズンからペナントレースに参加。プロ野球草創期からライバルとして好勝負を繰り広げてきた。
戦前、職業野球の時代には巨人と阪神(タイガース)の2チームが優勝を独占した。南海は1941年の4位が最高。巨人との通算対戦成績も巨人60勝、南海15勝、1引き分けと全く歯が立たなかった。
南海が初めて優勝したのは終戦翌年の1946年。この年は近畿グレートリングと名乗ったが戦前に1シーズンだけ在籍して応召した山本一人(のちの鶴岡一人)が復員。プレーイングマネージャーとなりチームを初優勝に導く。丸山二三男が25勝、別所昭が19勝。監督の山本も一、三塁を守って打点王となりMVPを獲得した。
1947年、近畿グレートリングは南海ホークスに改称。3位になる。優勝は阪神。巨人は5位に甘んじた。1948年は南海ホークスが再び優勝。エース別所が26勝、プレーイングマネージャーの山本一人は再びMVPとなった。
「球界の盟主」といわれ、戦前から最強チームだった巨人は3年連続でV逸。戦後はまだ1度も優勝がなかった。そこで巨人は1948年オフに南海のエース別所昭に接触。移籍を働きかけた。南海は連盟に抗議。この問題は連盟事務局の裁定となり、巨人は10万円の制裁金を課せられた。別所は翌1949年の開幕から2か月間出場停止となるが、結果的に移籍は認められる。これが球史に残る「別所引き抜き事件」だ。
巨人と南海は険悪な空気のまま1949年のシーズン開幕を迎え、4月12日に後楽園球場で両チームが初対戦した。3戦目の4月14日の9回、南海の一塁走者筒井敬三が併殺崩れを狙って二塁に強引な滑り込みをしたことがきっかけとなって、筒井と巨人の二塁白石勝巳が口論となる。これに割って入った巨人の三原脩監督が、筒井の頭を殴打。退場処分となった。三原監督は100日間の出場停止処分となる。この事件も「三原ポカリ事件」として球史に刻まれている。
このシーズン、巨人は戦後初優勝を飾る。別所は名前を「昭」から「毅彦」に改め、巨人のエースになっていく。
戦後の1リーグ時代(1946~49年)の対戦成績は、巨人35勝、南海36勝、1引き分けえと拮抗していた。
翌1950年の2リーグ分立で巨人はセントラル・リーグ、南海はパシフィック・リーグに分かれたため、レギュラーシーズンでの対戦はなくなった。しかし、その後も両チームは日本シリーズなどで好敵手として対峙していく。
(広尾晃 / Koh Hiroo)