野球、バスケの“元祖二刀流”選手が94歳で死去、ヤ軍でWSに3度出場
メジャーデビューの1950年に160安打の活躍
左打ちの外野手、一塁手としてワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)、ヤンキースなどで活躍したアーブ・ノレン氏が11月15日、死去した。94歳だった。
ノレン氏は1924年11月29日、ニューヨークに生まれる。野球、バスケット両方で注目された選手で、パサデナシティカレッジを卒業後、1946、47年はNBAの前身であるNBLのシカゴアメリカンギアーズでプレー。カレッジ時代は陸軍に従軍している。
その傍ら、1946年にはブルックリン・ドジャースとマイナー契約した。野球と他のスポーツを掛け持ちする例は、アメリカでは珍しくないが、ノレン氏はそのごく初期の例と言えるだろう(以下敬称略)。
ドジャースでは3Aまで昇格したが、1949年9月末にワシントン・セネタースに5万ドルで譲渡された。
1950年セネタースでメジャーデビュー。開幕戦から3番中堅でスタメン出場し、160安打、14本塁打、98打点、打率.295をマーク。打率はリーグ15位だった。MVP投票で16ポイント(15位)を獲得する活躍だった。
1951年も86打点をマーク。本塁打は少なかったが、チャンスに強いクラッチヒッターとして売り出した。1952年5月3日、ノレンは複数トレードでヤンキースに移籍。ヤンキースは前年に大スターのジョー・ディマジオが引退しており、その後釜となる外野手を求めていた。
ヤンキース移籍後もシュアな打撃で活躍。1954年には12本塁打、66打点、リーグ5位の打率.319をマーク。オールスターにも選出された。この間、名将ケイシー・ステンゲル率いるヤンキースは1952、53、55年にワールドシリーズに進出。いずれもブルックリン・ドジャースと対戦し、ノレンはこの3つのシリーズに出場している。
しかし1956年にエルストン・ハワードが外野手として台頭すると、ノレンはレギュラーの座を奪われ、この年のワールドシリーズのロースターには入らなかった。
1957年2月、大型トレードでカンザスシティ・アスレチックスに移籍。さらに8月にはウェーバーにかけられカージナルスに移籍した。以降はレギュラーになることなく、カブス、ロサンゼルス・ドジャースと渡り歩き、1960年を最後に引退した。
1962年にカリフォルニア・エンゼルス傘下の3Aハワイ・アイランダーズのプレーングマネージャーとして2シーズン采配を執った。
引退後、ノレンはスカウトやファームの指導者、コーチなどを歴任した。通算成績は1093試合出場、3119打数857安打、65本塁打、453打点、打率.275。オールスター出場1回。
(広尾晃 / Koh Hiroo)