初めも終わりも緊急登板、同学年コーチが振り返る井口資仁との不思議な縁
18年前のプロ初登板、ロッテ小林雅英投手コーチの第一歩は井口から
今でもはっきりとその時の情景を思い出せる。小林雅英投手コーチの現役初登板。99年4月7日のホークス戦だった。ドームではなく北九州でのゲーム。マリーンズ打線が爆発し、6回までに21点。先発のジョー・クロフォードも1失点と完勝ムードのゲームだった。7回の守り。1アウトを取ったところでマウンドのクロフォードが表情を強張らせた。足をつっての降板。それまでブルペンで椅子に座って試合を見つめていたルーキーの小林雅が2番手として登板を言い渡された。記念すべき初めてのマウンドは突然、訪れた。
「ルーキーだったから早めにブルペンに行って、一度は肩を作っていたけど、バタバタだった」
最初の対戦打者を中飛。続いて対戦をしたのが井口資仁内野手だった。1974年、寅年生まれの同じ年。大学3年時にはアメリカで行われた日米大学野球選手権でチームメートにもなった。青山学院大学出身の井口は大学時代からスーパースター。20歳ぐらいの時から、すでにその名前は全国に響いていたこともあり、知っていた。
「プロ初登板で、すぐに対戦できたことはとても印象に残っている」と小林コーチは当時を懐かしむ。結果はスライダーで空振り三振。これが小林雅にとってのプロ初奪三振。のちに日米通算504奪三振を記録した男の記念すべき1つ目となった。それだけにハッキリと覚えている瞬間だ。
「対戦の時は、とにかく名前負けしないようにと、いつもぶつかっていった。右打者なのに右中間に放物線を描くようなホームランを打てる選手。まるで左打者のホームランのようなアーチを右に打てるのが印象的だった。木のバットで右にあんな打球を飛ばす日本人右打者はそれまで見たことがなかった。とにかくリストの強い選手だった」
通算対戦成績は34打数で7安打。同世代のスーパースターに負けじと、いつも必死に投げ込んだ。この世界で数多くの強打者と相まみえてきたが、もっとも強く意識し、抑え込んできたのがこの男だった。
最後の対戦もまた忘れられない。小林雅はマリーンズからメジャーへ挑戦。その後、再び帰国し、ジャイアンツを経てバファローズに入団をしていた。そして一方の井口はホークスからメジャーへ。そして日本に戻り、マリーンズ入りをしていた。