歴史的データも清宮の決断を後押し!? 早実出身選手は高卒の方が大成傾向
NPB史上唯一の19世紀生まれ岡田源三郎から続く系譜
早稲田実業の清宮幸太郎がプロ入り宣言をした。プロ入りすればプロ野球黎明期に選手、監督として活躍した岡田源三郎以来、早稲田実業から出た43人目のプロ野球選手となる。
岡田は早稲田実業時代、第1回の全国中等学校優勝野球大会(のちの夏の甲子園)に捕手として出場。その後、中央大、明治大でプレーし、明治大の野球部監督も務めていたが、プロ野球(職業野球)が創設された1936年に名古屋金鯱軍(のち名古屋と合併し現在の中日になる)の監督に就任。すでに40歳だったが、翌1937年から3年間、プレイングマネージャーとして24試合に出場している。プロ野球史上唯一の1800年代生まれ(1896年・明治29年)で、1978年には野球殿堂入りしている。
戦前も多くの早稲田実業出身の選手がプロ入りしているが、活躍した選手は少ない。
戦後になって、早稲田実業と早稲田大で花形外野手だった荒川博が、毎日オリオンズ(現ロッテ)に入団。163センチ・70キロの小兵ながらシャープな左打者として活躍し、入団1年目にはオールスター戦にも出場している。荒川は現役時代から打撃論の研究に熱心で、たまたま墨田公園で中学生の野球を見ていた時、右打ちの大柄な選手に注目。左打ちに転向させた上で、母校の早稲田実業への入学を奨めた。これが王貞治だ。
また、荒川は早稲田実業の後輩で、高校時代は無名だった榎本喜八に毎日の入団テストを受けさせた。晴れて毎日に入団した榎本喜八は、安打製造機として大活躍、1960年には首位打者を獲得する。
王貞治は早稲田実業に入学して甲子園の優勝投手となった後、1959年に巨人へ入団。1962年に一本足打法となり、通算868本のアンタッチャブルな本塁打記録を作る。
榎本喜八、王貞治はともに2000本安打を打ち、野球殿堂入りしているが、2人がここまで大成したのは、荒川博の指導によるところが大きかったはずだ。
王貞治と高校時代バッテリーを組んだ醍醐猛夫も毎日に入団し、リーグを代表する捕手となる。
また早稲田実業から早稲田大に進学し、スター選手となった徳武定之は三塁手として国鉄(現ヤクルト)、中日で活躍した。
さらに早稲田実業から駒沢大を経てヤクルトに入団した大矢明彦は、オールスターに7回も選出される名捕手となった。高校で大矢の1年後輩だった石渡茂は、中央大を経て近鉄に入団。名内野手としてオールスターに2回選出されている。