“哲のカーテン”、V9、江夏の21球…球史の裏に隠された「サイン」進化の歴史
ヒットエンドランが登場した1880年代にはすでに単純なサインが用いられていた
野球の試合で「サイン」が使われるようになったのはいつ頃なのか。正確にはわかっていないが、19世紀後半には既に使用されていたと考えられている。
1880年代、シカゴ・ホワイトストッキングスでプレイングマネジャーとして活躍したキャップ・アンソンと主力打者だったキング・ケリーは「ヒットエンドラン」の生みの親といわれるが、この時点ですでに打者と走者、ベースコーチの間では何らかのサインが用いられていたと考えられる。これ以外にも送りバント、スクイズなど、打者と走者の連携が必要な際にもサインが使われた。また、19世紀末になって「変化球」が普及するとともに、投手と捕手の間にもサインが使われるようになった。野球の試合でサインが使用されるとともに「サイン盗み」も横行するように。ただ、当時のサイン盗みはエンドランなどの作戦のタイミングを見抜くのが中心だった。
1950年代半ばまで、日本のプロ野球のサインは単純なフラッシュサインが中心だった。芥田武夫監督時代(1952~57年)の近鉄のサインは、一塁コーチャーズボックスに立った芥田監督がスパイクで地面をガリガリひっかけば盗塁、腰のベルトを触れば送りバントという簡単なもので、相手チームも簡単に見破り「次はバントだぞ」などと声をかけていたという。三原脩監督就任時(1951年)の西鉄も似たようなもので、コーチャーズボックスから片足を出せば盗塁、舌をぺろりと出せばスクイズといった調子だった。当時のプロ野球では、サインがばれてもそのまま作戦を強行することさえあった。
しかし、三原監督は1954年頃からサインを大幅に複雑なものに改良。イニングによってサインを変更したり、似たようなサインを立て続けに出してかく乱したり、コーチャーズボックス内の三原監督の立っている場所によりサインの意味が変わったりと、より実践的なものを取り入れた。しかし、すべての選手が三原監督のサインを理解して従っていたわけではない。中西太などはサインに忠実にプレーしたが、ベテランの大下弘はサインを理解していなかった。三原監督は大下と何度か話し合いの場を持ったが、ついには折れて「大下弘だけはノーサイン」ということに落ち着いた。