「パズルのようだった」元日本代表監督が語るプロ・アマ混合チームの創成期
初のプロ・アマ混合チーム率いた大田垣耕造さんが語る日本代表の“歴史”
今年3月に開催される第4回WBCに先駆け、昨年12月にメジャーリーガー青木宣親(アストロズ)を含む19選手の侍ジャパンが先行発表された。さらに、2020年の東京五輪では野球が正式種目に採用されるなど、ここ数年、国際大会への注目度が高まっている。
今でこそ代表チームはプロ選手で構成されることが当たり前となっているが、日本代表に初めてプロ選手が参加して、プロ・アマ混成チームで戦ったのはシドニー五輪予選を兼ねた1999年アジア野球選手権からだ。同じくプロ・アマ混成チームで戦った2000年シドニー五輪では、日本野球史上初めて五輪メダルを逃すことになった。まさかの展開となったシドニー五輪で日本代表監督として指揮を執り、現在は日本野球連盟の副会長を務める大田垣耕造さんに、当時を振り返ってもらった。
高校時代、尾道商でエースだった大田垣さんは、1967年に春の選抜に出場。進学した青山学院大学でもエースとして活躍し、チームを東都大学リーグ2部で2度の優勝に導いた。卒業後は社会人野球の東芝で活躍。1979年に現役引退後はコーチ、助監督として指導にあたり、88年に東芝の監督に就任した。その年にいきなり都市対抗野球大会で優勝すると、続く日本選手権で初優勝。東芝の黄金時代にコーチ、監督として関わり、数多くのプロ選手を輩出した。
社会人野球での手腕を買われ、93年に全日本代表コーチに就任し、96年アトランタ五輪で銀メダル獲得に貢献。その翌年に行われたインターコンチネンタル大会から日本代表監督に就任した。