「自分らしく」全力疾走のロッテ荻野貴司 新背番号「0」に込めた思い
俊足が自慢も、ルーキーイヤーから故障続き…
高校は野球名門の私立高校ではなく、一般入試で県立郡山高校に進学をした。県立で私立の強豪校を倒したい。それが荻野にとって一番、「自分らしく」思えた。強い信念の下、高3夏は決勝まで勝ち進んだ。最後の相手は奈良の名門・天理高校。3番・遊撃でスタメン出場をしたが、残念ながら3-8で敗れた。大きな夢は叶える事は出来なかったが、自分らしく過ごせた充実した日々だった。それから「自分らしく」という言葉がより深く刻まれて、座右の銘となった。
大学、社会人を経てマリーンズに1位指名で入団。プロに入った時点でも決して体格的に恵まれているとは言い難かった中、やはり持ち前の俊足を売りに生きると誓った。ルーキーイヤーの2010年3月20日、ビジターで迎えた埼玉西武との開幕戦。荻野は2番・中堅でプロデビューをした。5回の第3打席にセーフティーバントでプロ入り初ヒットを記録。開幕から自慢の俊足を武器に疾走した。その活躍に引っ張られるようにチームは首位を突っ走った。
しかし、毎日の激走に右ひざがパンクした。交流戦途中にリタイア。46試合の出場で打率.326、1本塁打、17打点、25盗塁の成績を残し、1軍の舞台から姿を消した。新人王本命と言われた中での無念の戦線離脱だった。結局その後、3度右ひざの手術を行いリハビリを終え、ようやく1軍に戻っても、怪我に悩まされるシーズンは続いた。2013年には右足を肉離れ。2014年には左肩を脱臼した。2015年には左足を肉離れ。昨年も脇腹を肉離れするなど戦線を離脱した。