梅の木に宿る亡き根本氏の思い ホークス宮崎キャンプ誕生秘話

宮崎キャンプ実現のきっかけとなった会話とは

 事の発端は他愛もない会話からだった。根本と当時の宮崎市長であった津村重光は、津村の親戚を通じ、親交を持つ仲にあった。津村はこう回顧する。

「私が市長に就任した時には既に、市制70周年記念事業としてスポーツ公園を整備する計画が宮崎市にあった。だけど、私は初め、それに否定的だった。木花に巨人がキャンプに使っている立派な県総合運動公園があったからね。人口30万人(当時)の宮崎市に2つも必要なのか、と。だから、スケールダウンさせて、小さな施設にするつもりだった。

 市長に就任して、しばらくして、根本さんと話していたら『しげみっつぁん(根本は津村をこう呼んでいたという)、運動公園を作るんだろう?』と話があった。その時も『スケールダウンさせて作るつもり』だと答えたんです。そうしたら『それはダメだ。プロ野球キャンプに使いやすい施設にすれば、最高。そうなれば、ダイエーがキャンプに来るようにする』と言われたんです。巨人以外にもう1つプロ野球の球団がキャンプに来てくれるなら、スケールダウンすることなく、作る意味があると思い、整備計画をスタートさせたんです」

 この会話をきっかけに、キャンプ地整備と誘致の話は本格化した。ただ、宮崎市が先に誘致を打診したのは、西武。実はここにも根本の一言があった。

「まずは西武に話をしてみろ」。根本はダイエーに加わる以前、西武で監督や管理本部長などを務めていた。その言葉通りに西武に声をかけたが、既に、西武は現在もキャンプを張る宮崎・南郷でのキャンプの計画を進めており、話はまとまらなかった。津村から「西武はダメでした」と報告を受けた根本は「そうか。それならば、ダイエーがやろう」と応じたという。

「根本さんは、はじめから西武とは話がまとまらないことを分かっていたんじゃないかな。それでも、仁儀を通すために、一度西武に話を持って行かせたんだと思う」と津村は言う。晴れて、ダイエーキャンプの誘致活動を行うことが決定。2002年11月、正式に球団に打診する運びとなった。

 キャンプ地の設計にも、根本の意向が全面に反映された。もともとは宮崎市西部運動公園として、軟式野球場など小規模な施設があるだけだったところを、ほぼ一から造成した。周辺の用地を取得し、施設全体を完成させるまでの総工費は170億円を超える。そのすべてを市の税収でまかなった。現在の姿に、着工前の面影は残っていない。

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