ヤクルト初優勝に貢献 デーブ・ヒルトン氏死去、そのキャリアを振り返る
ドラフト1巡目でMLB球団入りも成績を残せず、日本へ渡り開花
1978年のヤクルト・スワローズ初優勝に、しぶとい打撃で貢献したデーブ・ヒルトン氏が死去した。67歳だった。
デーブ・ヒルトン氏はサザンテキサス短大を経てライス大へ。1971年1月ドラフトでサンディエゴ・パドレスから1巡目(全体1位)で指名され入団した。
MLBでは1986年まで1月と6月の2回ドラフト会議が開かれていた。1月のドラフトは小規模で有力選手が指名されることは少ないが、ヒルトンは即戦力とみなされ、翌1972年9月10日のアトランタ・ブレーブス戦で「7番・三塁」でメジャーデビューした。
翌年は開幕スタメンに名を連ねたが、期待外れの成績に終わる。MLB通算では6本塁打、打率.213に終わり、1977年はクリーブランド・インディアンス傘下3Aトレドでプレーするも、MLB昇格はならなかった。
1978年2月下旬、ヤクルト史上初の海外キャンプであるアリゾナ州ユマの春季キャンプでテストを受けて入団。広岡達朗監督はロバート・ベロアという別の外国人内野手を獲得する予定だったが、土壇場で断られ、そのあとにヒルトンがテストを受けて入団が決まった。
1978年は「1番・二塁」で起用され、ヤクルトの初優勝に貢献。大学時代は数学を専攻。まじめで几帳面な性格で知られ、豪快な性格の4番、チャーリー・マニエルとは対照的なキャラクターで広岡監督の信頼を得た。