“いちファン”、そして“いちメディア”として接した星野仙一

北京五輪では日本代表監督を務めた星野仙一氏【写真:Getty Images】
北京五輪では日本代表監督を務めた星野仙一氏【写真:Getty Images】

早すぎる別れ、星野氏を悼む

 やっぱり、覚えていてくれたのか……。星野仙一さんに対して、最後にいだいた大きな感想だった。

 2018年1月4日、星野仙一氏が他界した。70歳の別れは早過ぎる。野球界にとっての喪失は口にできないほどのものだ。

 星野さんと最後に会話を交わしたのは17年4月25日、東京ドーム。試合前練習中、幸運にもコメントを取ることができた。

 以前、書かせてもらった岡山県の野球事情(https://full-count.jp/2017/04/27/post66479/)。「岡山といえば星野仙一」ということでチャンスを伺っていたが、その機会が訪れた。この日は親会社の感謝イベントがあるということで来客が多数。球団副会長として多くの対応をしていた際、一人で練習を眺めている時間が少しだけあった。ぶしつけで失礼だと思ったが、名刺を渡してコメントが欲しい趣旨を伝えた。

「お前の名刺は前にもらっているよ」

 信じられなかった。担当記者と違い、全試合、チーム帯同取材していた訳ではない。縁があって数回、挨拶そしてコメントをいただいたをくらいだった筆者のことを覚えていると言う。

「そんな難しいことはわからんよ……」

 いつもと変わらない憎まれ口を叩きながら、こちらが周囲を気にする程、語ってくれた。

「こんなんで記事になるんか……」

 笑いながら去って行った後ろ姿を今でも覚えている。

 忘れられない体験がある。この仕事に就く前の学生時代、野球選手に憧れ続けていた“いちファン”時代のこと。ある試合前、星野監督(当時)にサインをいただいた。オープン戦の地方試合、関係者入り口付近、「誰か出て来ないか……」と待っていた。すると向こうから星野監督が一人で歩いて来た。こちらも私一人。思い切って持参していた現役時代の野球カードを差し出した。

星野氏に感じた日本球界への底知れない愛情

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