“いちファン”、そして“いちメディア”として接した星野仙一

星野氏に感じた日本球界への底知れない愛情

「なんだぁお前、こんな古いもの持って来て……」

 いきなりのお説教をされた。

「貸せや」

 その後、さらさらとサインをしてくれた。「今はこんな古いものも売っているらしいな。どうせわしのは安かったんやろ」。笑いながら球場内に消えて行った。

 メディアの世界に足を踏み入れてすぐ挨拶する機会に恵まれた。イチローがメジャー挑戦初年度の01年、フロリダ州ベロビーチでのドジャースキャンプだった。知人のベテラン記者の方が、学生時代から星野さんと旧知の仲ということで紹介していただいた。

「おう、新しい雑誌か。いろいろ大変だと思うけど頑張れよ。アメリカだけじゃなく、日本の野球を盛り上げてくれよ」

 陽焼けした真っ黒な顔で優しくエールをくれた。日本球界への底知れない愛情のようなものを感じた。

 その後も阪神、楽天監督時代など現場で何度となくお見かけしていた。しかしインタビューなど直接、長い時間話を伺う取材機会には恵まれなかった。

「どけや、邪魔や」

 ベンチ裏などでたまに出くわすと、決まってそう言われたのが印象に残っている。

 星野仙一という男は、地方在住の“いち野球ファン”の少年にとって、テレビや雑誌から受けたイメージのままだった。

 闘将、鉄拳制裁……。会うといつも緊張してしまう男。サインをもらったその後、数日は「おっかなかった……」と周囲に漏らしていた時と変わらない。それはついに今日まで変わることはなかった。

 しかし冒頭の件以降、本当に分かるようになったこともある。優しく、情に深く、気配りの男……。多くの関係者が語る、「星野仙一は究極の人たらし」だと。この中には賛否両論が含まれている。批判を持ってこういう人もいる。この年齢になってわかる。ある程度の成功を収めた人には味方のみでなく、多かれ少なかれ敵も生まれて来る。星野さんほどの人ならば、妬みややっかみを持つ人も少なくはないだろう。だが多くの人々のコメントを見ると、やはりそれらを魅力が大きく凌駕していた人物だったのだと思う。

「野球と恋愛ができて良かった。これからも野球に恋をしていたい」

 こんな素敵な言葉を残して逝ってしまった星野仙一を、決して忘れることはない。合掌。

(山岡則夫 / Norio Yamaoka)

山岡則夫 プロフィール
 1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌Ballpark Time!を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、製作するほか、多くの雑誌やホームページに寄稿している。最新刊は「岩隈久志のピッチングバイブル」、「躍進する広島カープを支える選手たち」(株式会社舵社)。Ballpark Time!オフィシャルページ(http://www.ballparktime.com)にて取材日記を定期的に更新中。

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