西武の礎を築いた功労者・片平晋作氏 現役時代は一本足打法で勝負強さ発揮
東京農大から4人目のプロ入り 30歳でレギュラー定着
元南海、西武の強打者で、西武の2軍監督なども務めた片平晋作氏が逝去した。68歳だった。
片平氏は大阪市出身で、上宮高校に進む。在学中の上宮高校はまだ全くの無名校で、夏の地方大会では2回戦、1回戦、2回戦と3年間とも大阪府大会で敗退したが、この時期に王貞治に憧れ、一本足打法で左打席に立つようになる。
東京農大に進んで、中軸打者として活躍。当時の東京農大は東都大学リーグの2部だったが、長身で飛距離のある打球を放つ左打者である点に注目され、南海ホークスから1971年にドラフト4位で指名された。この時、東京農大からのプロ入りしたのは片平で4人目。3年先輩には中日やロッテで守備の名手として活躍した広瀬宰がいる。
1年目の1972年は1軍出場は1試合だけにとどまったが、翌年から外野や一塁の控え、代打として起用された。1975年にパ・リーグで指名打者制が導入されると指名打者として出場機会が増え、76年には12本塁打を打つなど長打は注目されたが、確実性に乏しくレギュラー定着はならなかった。
1977年オフに野村克也兼任監督が退団。球団は、そのオフに正一塁手の柏原純一を日本ハムへトレードし、代わりに小田義人を獲得。片平は控え一塁手でだったが、78年にチーム最多15本塁打を記録。翌79年に小田とのポジション争いに勝って正一塁手となると、初めて規定打席に達し、16本塁打、68打点、打率.329(5位)を記録。入団8年目、30歳にしてのレギュラー獲得だった。
この頃、同じ左の強打者だった門田博光と中軸を組み、3番あるいは5番で勝負強い打撃を見せた。1980年にはオールスターにも選出され、第1戦で代打で出場。阪神の小林繁から右前打、第2戦は「3番・一塁」で先発し、3打数2安打と活躍した。球宴出場はこの一度だけだった。