62年前のハワイキャンプ たった1度のチャンスをものにした野村克也

誘惑が多かったハワイキャンプ、「今思い出してもぞっとする」

 無名の野村克也にチャンスはなかなか回ってこなかった。それでも1年目は守備固めなどで1軍で9試合に出場したが、シーズン中に肩を痛めファームに。2年目は捕手から一塁手に転向したが、2軍暮らし。しかし2軍での打撃成績は24試合78打数25安打1本塁打7打点.321 打率リーグ2位と立派なものだった。

 野村克也にとって3年目の1956年。南海はハワイ・ホノルルでキャンプをすることになった。

 前年の日本シリーズ、巨人に3勝4敗で敗退した南海は、ケチだ、チーム強化を惜しんでいると新聞で叩かれた。カチンときた鶴岡一人は、小原オーナーに懇願してハワイキャンプをすることにしたのだ。

 海外旅行そのものが珍しい時代だけに、メンバーは厳選した。前年入団した広瀬叔功(のち殿堂入りする快速外野手)など若手の大部分は広島県、呉の2軍キャンプにまわした。

 しかしこのオフに、高橋ユニオンズに捕手の筒井敬三を譲ったこともあって、投手の球を受けるブルペン捕手が足りない。そこで、野村を連れていくことにした。

 鶴岡監督は出発前、「行けないものの身にもなってみろ。あちらでルーズにやるものは、途中からでも帰国させる」と選手に檄を飛ばした。

 しかし、キャンプは初日から腰砕けとなった。歓迎パーティーで、チームを引率した球団代表がふざけてフラダンスをしたシーンが写真に撮られ、日本のスポーツ紙にでかでかと載ったのだ。南海本社は激怒して、球団代表を帰国させた。

 選手たちも、それでタガが外れたのか、ホテルから門限破りをして遊びに出かけた。日系人が多いハワイは、誘惑が多かったのだ。南海のハワイキャンプは物見遊山と化した。

 鶴岡ははるか後になってもこの時のキャンプを「今思い出してもぞっとする」と言っている。

「この最初のチャンスを逃さなかったところに、野村の良さがあった」

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