幻の本塁打「よく覚えてる」 NPB初現役メジャーリーガーが秘める日本愛(上)
仲間に恵まれた日本時代、「江藤は大親友の1人」
――アメリカでのプロ生活では様々なチームに移籍を繰り返したが?
「その当時、メジャーのチームは16チームしかなく、私と同じポジションに殿堂入り選手がいたことが3回あった。ギル・ホッジス、オーランド・サペダ、そしてウィリー・マッコビーの3人だ(※ホッジス氏は殿堂入りせず。その選手たち競争すると、まあプレーの時間が限られるよ(笑)。毎日試合に出たかったことが日本へ行った1つの理由だったんだよ」
――日本へ推薦してくれた人は?
「中日新聞で働くゼネラルマネージャーの高田さんという方が紹介してくれた。権藤さんには妹がおり、サンフランシスコに住んでいた。日本の話を聞いたよ。実際、ジャイアンツのメンバーとして1960年に日本へ行ったこともあったからね。とても興味を持った。ただし、トレードがあるまではチャンスがなかった。メッツからパイレーツにトレードになり、そこで日本へ行く許可を得たんだ」
――ここに1963年の開幕戦のメンバーを書いて来ました。(1番中堅・中利夫、2番左翼・会田豊彦、3番一塁・マーシャル、4番捕手・江藤慎一、5番三塁・前田益穂、6番右翼・ニーマン、7番二塁・高木守道、8番遊撃・今津光男、9番投手・河村保彦)
「全員、今でもよく覚えているよ。高木は若くて、彼はとても気さくだった。彼がいいプレーをできなかった時、いつも励ましていた。いつも明日があると。江藤は大親友の1人だ。いつも私が寂しくならないように気にかけてくれていた。江藤、中、葛城、そして一枝。ナイスガイだった。今思い出してもいいチームメートだった。マネージャーの杉浦さんはとても厳しかった。彼とも仲良くなった。西沢(道夫)監督とは最高の時間を過ごした。彼は通訳もしてくれたしね」