「あの時の生徒、立派だった」3.11直後にセンバツで散った東北高の現在地
部員たちは給水活動、地域住民に見送られて向かった甲子園
東北は部員の家族に犠牲者がいないことを確認し、センバツ出場を決断した。「最後は石巻の子がお母さんと連絡を取れたのが(地震の)3、4日後」と我妻監督。地域で給水活動をしながら、慌ただしく出発を迎えた。東北の泉キャンパスは仙台市の北西部に位置する泉区館にある。出発の際、館中学校には多くの地域住民が集い、見送ってくれた。地域のために活動してくれた部員たちが甲子園に向かう。住民はエールを送りたかったのだ。
「最初は、壮行会をやりたいから寄ってほしい、と言われたんです。でも、こんな状況で行くわけだから、ひっそりと行きます、と言ったんだけど、住民の方がどうしても寄ってほしい、と。それで寄ると、段ボールで手作りのメッセージを作ってくれたりしていて。あの光景も忘れられないですよね」
試合は特例措置で1回戦の最後に組まれた。相手は大垣日大(岐阜)だった。東日本大震災の発生からわずか17日後、試合には0-7で敗れた。
「初回が強烈でしたからね。あの時、1回表が終わらないんじゃないか、試合が終わらないんじゃないかって思いましたよ。初回に5点を取られて、よく7失点に収まったなと」
あれから7年。今年は部員不足の鹿島台商、涌谷、加美農の3校が組む連合チームとの試合中に14時46分を迎えた。1回裏が終わったところで試合は中断。両チームの選手、午前中に練習試合をした岩ヶ崎、スタンドの観戦者も海の方角を向いた。「黙祷!」のかけ声がグラウンドに響く。遠くから鐘の音が1つ、2つと鳴った。
「あのスタンド、アルプス席は忘れられないですね。『がんばろう!!東北』という旗もいっぱいあって。黙祷の時はその光景が出てきました。地震の時の様子や、あの時いた生徒の顔とかがパパパパパッと。あの時の生徒、立派だったと思いますよ。ああいう状況でも、当然、誰も愚痴を言うわけでもなく、1つ1つを受け入れていました」
責任教師としてベンチ入り。試合後にアルプス席を見上げた光景や勇敢に戦った選手たちが蘇った。
13年に監督就任。11年のセンバツ以降、やや甲子園から遠のいたが、16年夏には7年ぶりとなる出場を勝ち取った。
「あれからずっと甲子園にたどり着けなくてね。(16年夏の出場時は)震災当時のうちの部員じゃない子たちなので、意識させるつもりはなかったですが、学校として、野球部としては、あの時、応援していただいた方に元気にやっているよという姿を見てほしいという思いは強くありましたね」
16年夏の甲子園など、1年生から試合を経験している選手たちもいたが、昨秋は宮城県大会の初戦で敗退。ひと冬、次の夏を目指して練習に取り組んできた。10、11日で4試合を戦い、「今後、もっともっとやっていかないといけないなという方が当然、多くて」と我妻監督は頭をかいたが、最後は「夏に向けて頑張っていきます!」と締めた。
間もなく、今年もセンバツが始まる。東日本大震災直後、激動の日々を送り、甲子園に立った東北。あれから7年。今年はセンバツ開催中に関東遠征で力を蓄える。再び、聖地で躍動することを目指して――。
(高橋昌江 / Masae Takahashi)