巨人「地獄の伊東キャンプ」とは何だったのか 巧打者・篠塚氏が明かす“意義”

「『俺たちがやっていくんだ』という思いが強くなった」

 それでも、「一番楽なのは打っている時。バッティングのほうが楽だった」という。「空き時間があるからね。自分のペースで打てますから。だから、守備とランニング、それが一番嫌だった」。当時は、2時間連続でノックが行われたことなども話題となったが、「声も出なかったですよ。みんな話す元気もない。(練習後は)『話しかけんな』という、そんな感じの雰囲気もありましたよ」と篠塚氏は振り返る。

 一方で、18人のメンバーに選ばれたことは意気に感じていた。

「(参加したのは)昭和50年(1975年)くらいに入った定岡(正二)さんとかの、その後の選手ですよね。51~54年(1976~79年)の4年間で、いけそうなものがあるのかなというのを長嶋監督は感じたと思います。ここでやれば、何とかキャンプで選手が乗り越えられれば、この選手たちはいけるんじゃないかという思いは監督にあったのかなという感じはします。

 伊東キャンプは脱落者が誰もいなかったということで、やっぱり体が資本だから、体が強いんだというのを見せつけてやったという、そんな感じがありました。ピッチャーを入れて18人。その18人というのは、より一層、『俺たちがやっていくんだ』という思いが強くなったと思います。ミスターにも、『こいつらやってくれるんじゃないかな』という思いを我々はさせたんじゃないかなと。結果が出るのは2年、3年たってからだろうな、というのはありましたけど、その通りになっていきましたからね」

 巨人は1965年から1973年にかけて、伝説のV9を達成。しかし、1974年は2位に終わり、長嶋氏はその年限りでの現役引退を表明した。監督に就任し、76、77年はリーグ優勝を果たしたものの、セ・リーグで下位に低迷する年もあり、日本一に輝くこともできなかった。

 巨人がまさに過渡期を迎えている中、長嶋監督はV9時代を知らない若手を「シンデレラ・ボーイ」と“命名”。伊東キャンプに参加した18人は、篠塚氏の他に江川卓、西本聖、角三男、藤城和明、鹿取義隆、赤嶺賢勇、山倉和博、笠間雄二、中畑清、淡口憲治、松本匡史、平田薫、山本功児、中司得三、河埜和正、中井康之、二宮至というメンバーで、のちにスターとなった選手も多く含まれていた。まさに重要な意味を持つキャンプだった。

心に穴が空いた1980年の長嶋監督退任、その翌年の日本一

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