今年で通算39回目の対戦 日本野球を進化させてきた日米野球の歩み

侍ジャパン・稲葉篤紀監督【写真:Getty Images】
侍ジャパン・稲葉篤紀監督【写真:Getty Images】

戦前の日本に戦術や守備、審判技術を伝えた「野球大使」ハンター氏

 日本プロ野球の「憲法」ともいうべき「日本プロフェッショナル野球協約」の第3条 (協約の目的)には「わが国におけるプロフェッショナル野球を飛躍的に発展させ、もって世界選手権を争うことに資するべく」という一文がある。協約は毎年のように改訂されてきたが、この部分は不変だ。「日米野球」は「世界選手権」を最終目標とする日本プロ野球にとっては、単なるエキシビションゲーム以上の意味を持っている。

 野球は西南戦争が起こった頃にアメリカからもたらされ、大学を中心に始められた。野球に親しんだ大学生が全国で教育者になる過程で、全国に広まった。しかし、ルールや技術について自己流の解釈に陥ることも多く、日米の野球が別のものになる危険性があった。当初の「日米野球」は、そのギャップを埋める役割をした。

〇戦前の日米野球とアメリカ側から見た勝敗

1908年リーチ・オール・アメリカン 17勝0敗0分 早稲田大、慶応大、他
1913年世界周遊野球チーム 1勝0敗0分 慶応大
1920年オール・アメリカン・ナショナル 6勝0敗0分 慶応大、他
1922年MLB選抜 16勝1敗0分 東京六大学、三田倶楽部、他
1927年ロイヤル・ジャイアンツ 23勝0敗1分 同志社大、関西大、他
1931年全米選抜 17勝0敗0分 全日本、立教大、早稲田大、
1932年ロイヤル・ジャイアンツ 23勝1敗0分 広島専売、他
1934年MLB選抜 16勝0敗0分 全日本、東京倶楽部

 最初の日米野球は野球が日本に伝わって約30年後に行われた。早稲田大学が招へいしたリーチ・オール・アメリカンは、67勝したパッツィ・フラハーティなどMLB選手も含まれる強いチームで、当時の日本のトップチームだった早稲田、慶応も全く歯が立たなかった。

 1913年には、ジョン・マグロ―、トリス・スピーカーなどが、野球普及のために世界を周遊し、その一環で日本でも1試合行った。

 戦前の日米野球を語る上で、1920年に選手として来日したハーバート・ハンターの名前は欠かせない。エンドランや守備、審判技術などを日本の学生に伝授した。ハンターはMLBでは39試合に出場しただけだが、プロモーターとしてMLB選抜を率いるなど日米野球の発展に貢献し、「野球大使」と呼ばれた。

 1932年、文部省は「野球統制令」を発令し、当時の実質的なトップリーグだった大学野球の金銭授受を禁じた。このため、日米野球に大学チームが参加できなくなり、讀賣新聞社は1934年、ベーブ・ルースらのMLB選抜を招聘するにあたり、東京倶楽部を結成した。これが讀賣巨人軍となり、1936年の職業野球リーグ開始へとつながる。

現在の日米野球は侍ジャパンの実力を測る機会に

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