伝説の「10・19川崎球場」もう一方の主役 有藤氏が語った「あの日」【後編】

「本当に頭が真っ白だった。審判に何を言ったのかすら覚えていない」

「牛島には本当に悪いことをした……」

 そしてもう1人、有藤氏の口から出てきた選手名があった、牛島和彦である。87年に24セーブで最優秀救援投手、88年も25セーブで最多セーブ数を記録した球界きってのクローザー。88年はポイント数で近鉄・吉井理人に最優秀救援投手を譲ったが、セーブ数ではリーグトップに立っていた。そのため牛島には、「この日の登板はない」、ということが伝えられていたという。

「牛島は投げさせるつもりもなかったし、本人にも出番はないことを伝えていた。彼自身、毎年たくさん投げていたから、疲労もあるだろうしね。でも、試合展開や球場の雰囲気もああいう風になっていって、僕自身も少し冷静さを失った。やはりそこまで近鉄に負け続けていたのもあったんだろうね。試合前には勝っても負けてもいい、と思っていたけど、逃げきれそうな状況だったので牛島を投げさせることにした。1死からだったし、牛島も当然、気持ちの準備もできてなかったはずだよね」

 同点であれば9回で試合打ち切り引き分け、この時点で西武優勝が決定する。同点で迎えた9回表、1死から二塁打で走者が出た場面でのスクランブル登板だった。そして、牛島は2人目の打者、代打・梨田に勝ち越し適時打を許し、ロッテは敗れた。

 迎えた第2試合。4-4の9回裏、二塁塁上でのタッチプレーをめぐり有藤氏は抗議を行った。この時に試合時間は3時間30分を過ぎていた。「試合開始から4時間を過ぎた場合、次の回には入らない」。当時のレギュレーションで定められていたため、近鉄には時間との戦いもあった。しかし、結果は引き分けに終わり、近鉄優勝がなくなってしまう。

「本当に頭が真っ白だった。審判に何を言ったのかすら覚えていない。もちろん何分、試合時間が残っていて、それを過ぎると次の回へ入れないなんてのもなかった。とにかく判定がおかしい、と思って抗議に出たのまでは覚えている。気が付いたら少し冷静になって、抗議を止めようと思ってベンチに帰り始めていた、そうしたらスタンドからの怒号がすごかった」

意地、誇り、矜持、雰囲気…様々な要因が絡み合い生まれたドラマ

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