復興目指す南三陸で起きたひとつのドラマ つながった野球の縁
思い繋いだ3人の志津川高野球部監督経験者 「ようやくここで野球がやれる」
大滝さんと志津川高の縁はその後も続いている。大滝さんは毎年のように志津川高を訪れ、野球部と町の復興の歩みを見守ってきた。今年は仮設住宅が撤去されたグラウンドを初めて訪れ、震災時からの歴代の監督が現在、教えている選手たちによるゲームを観戦。始球式を務めた大滝さんは「僕も嬉しかったね」と笑った。
監督たちの思いも格別だ。佐沼高の松井監督は「感慨深いですよね。しかも、この3校が集まっているあたり、最高です。大滝さんもいたし、有り難いですね。ようやくこういう感じになってよかった。待ちわびていましたから、ここで野球をやれる日を」と喜んだ。震災後、高台にある志津川高のグラウンドには仮設住宅が建った。松井監督が志津川高で指導した5年間は一度もグラウンド全面を使うことができず、在任中は実現できなかったシートノックを初めて打った。
塩釜高の百々監督は2011年度で志津川高を異動となり、「このグラウンドでやり残したことがいっぱい、ありましたから」と無念の思いが残った。志津川高のグラウンドから仮設住宅が撤去され、初めての練習試合が行われたのは昨年9月29日。相手は塩釜高だった。「このグラウンドで野球ができる最初の瞬間に立ち会いたいと、ここに仮設住宅が建つと決まった瞬間から思っていました」と百々監督。仮設住宅が建つのは仕方のないことだと分かっていても、行き場のない思いがつのった。その思いが晴れた昨秋に続き、この春も参戦した。
志津川高は震災後、数え切れないほどの支援を受けた。仮設住宅の住民からも多くの応援を受けた。公立校ゆえ、異動は避けられないが、百々監督から松井監督へ、そして佐藤監督へと「思い」と「恩」は確実にリレーされている。その中でも、震災の年に夏の大会に向けてユニホームを寄贈してくれた大滝さんには「感謝しても仕切れない恩がある」と志津川高・佐藤監督。南三陸町で生まれ育ち、現在もこの町で暮らす佐藤監督は「震災後、生徒たちに言うのは、『自分の命を大切にしろ』ということ。命があれば、町もこうやって復興に向かって、前に進める。震災の時は、『この町、終わるのかな』という不安もあったけど、生きているからこそ、こうやって再生もしていけるんです」と言葉に力を込める。
人々から多くの大切なものを奪い、恐怖や不安を与え、何もかも変えてしまった未曾有の大災害。そんな中にあった1つの“球縁”。ユニホーム寄贈から始まった縁は、震災時からの監督たちを集め、仮設住宅がなくなったグラウンドで練習試合が行えるまでになった。試合後、松井監督は佐藤監督に「来年もやろうよ。やっぱり、意味がある」と言った。もちろん、百々監督も賛同。大滝さんにも伝えられた。来年は練習試合解禁日の3月8日(日)に行われる予定。場所は当然、志津川高のグラウンドだ。8年前に姿を変えた町で「また、来年」。そう言える日常が復興地の光だ。
(高橋昌江 / Masae Takahashi)