中日でわずか1年プレー「あしながおじさん」 ジーン・スティーブンス氏を振り返る
メジャー通算37本塁打の触れ込みも1966年に中日で1シーズンだけプレー
4月27日、1966年に中日ドラゴンズでプレーした外野手のジーン・スティーブンス氏が死去した。86歳だった。
ジーン・スティーブンスは1936年1月、アーカンソー州に生まれ、高校卒業時にボストン・レッドソックスのスカウト、トム・グリーンウェイドに見いだされ1951年にはマイナーリーグでプレーし始める。早くも1952年にはメジャーに昇格、4月18日のセネタース戦に代打で出場。この年は、大打者テッド・ウィリアムスが朝鮮戦争に召集され戦線離脱していたこともあって、若手外野手が抜擢されたのだ。
ウィリアムスが帰ってきた1954年にはファームに落ちたが、1955年にレッドソックスに再昇格した。スティーブンスは190センチ79キロ、当時としては長身だったが細身で、「あしながおじさん」というあだ名がついた。右投げ左打ちだったが、左投手が打てなかったために、レギュラーの座を獲得できず、代打や守備固めでの出場が多かった。俊足の持ち主でもあった。
守備位置は主として左翼。30代後半になったテッド・ウィリアムスの守備固めに入ることも多かった。テッド・ウィリアムスと行動を共にすることが多かったことから、「テッドのキャディー」とも呼ばれた。
1958年にはキャリアハイの9本塁打、1959年には75安打を記録したが、1960年4月に二塁後方の飛球をダイビングキャッチを試みて負傷。欠場を余儀なくされた。この年の6月にウィリィ・タスビーとのトレードでボルチモア・オリオールズに移籍。1961年6月マーブ・トロ―ネリーとのトレードで、カンザスシティ・アスレチックスに移籍。さらに1963年にはシカゴ・ホワイトソックスに移籍したがレギュラーの座を獲得することはできなかった。1965年はファーム暮らし。
1966年に中日ドラゴンズに入団。大リーグ通算37本塁打のスラッガーという触れ込みだった。日本での登録名はスチブンス。4月9日中日球場での広島との開幕戦に5番右翼で初出場。開幕から不振が続いていたが、4月30日の阪神戦で初本塁打。しかし以後も成績は上がらず、スタメン落ちするようになる。送りバントもするなど、日本野球に適応しようと努力したが、成績は上がらずシーズン終了とともに戦力外となった。穏やかで控えめな性格はチーム内では好評だったが、勝負師としては物足りないという評価もあった。
1967年はMLB3球団のマイナーでプレーするが、その年限りで引退。34歳だった。
MLBの通算成績は12年964試合1913打数460安打37本塁打37本塁打207打点27盗塁、打率.240。NPBでは1年109試合232打数52安打5本塁打29打点3盗塁、打率.224。引退後は野球界を離れたが、2019年4月27日、テキサス州グランベリーで死去した。
(広尾晃 / Koh Hiroo)